私の中の正義が揺らいだあの日から十年。

剣の道を真に極めるべく、私は修練を続けていた。

剣を構え、ゆっくりと深呼吸してから、目を閉じて精神を集中させる。

中庭にある楓の木。

自分と同じ名前のこの木の下にいると、不思議と心が落ち着く。

『あなたが求めているもの……それはなんなのですか。支配ですか、さらなる強さですか、それとも乾きを癒しているだけですか』

十年前、彼女に問うた言葉を自分に問うてみる。

幾度となく自問しても、私の答えはひとつ。

それは"正しき強さ"だった。

CLANNAD 10years after ~楓~

「……!」

一点に集中させた精神――練気を足元に向けて解き放つ。

大地が震え、風が吹いた。

あの日と同じような追い風。

木のざわめきが聞こえる。風が木を揺らし、青々と茂る楓の葉が一枚、木から離れて私の目の前にひらひらと舞い降りてくる気配がした。

「はッ!」

瞬間、目を開いて剣を横薙ぎに振るう。

地に落ちた楓の葉は、真ん中でふたつに分かれていた。

「……ふぅ」

止めていた息を一気に吐き出す。木漏れ日と、吹き抜けていく風が心地よかった。

「おい、剣道部顧問」

背後に人の気配。私の背後を容易く取る者は、この学校にはひとりしかいない。

剣を下ろし、振り向いた。

「何用です」

「何用ではない。顧問がいないと部活ができないだろう。さっさと剣道場に行け」

「私自身が道を極めねば、人に道を教えることなど出来はしません」

「教えなくていい。ただ見てやってるだけでいいんだ。なんなら一緒に修行でもなんでもしてやれ」

「そのように粗雑な心構えで武を行うなど、許されないことです」

私の返答に対して彼女は、はぁ、と深くため息をついた。

「私以上の頑固者だな、おまえは」

「それを知っていて私を顧問に招いたのはあなたです」

「なら断れ。なぜ引き受けた」

「あなたの未来を見届けるためです」

それは十年前の問いに対する彼女の答え。彼女は私の問いに対して『今ではない場所』と答えた。それが今、彼女がいるこの場所なのだろう。

「未来? なんのことだ?」

「それと、もうひとつ。私が求める答えのため」

「要領を得ないな。おまえが求めていることは結局なんだ?」

その問いの答えとして、すっと剣先を彼女に向ける。

「あなたとの決着を……」

「決着ならついたはずだが」

切っ先を向けられても怯むことなくまっすぐに私を見つめたまま言う。相変わらず大した胆力だ。

「そう、十年前の敗北によって私の正義は揺らぎました。言わばあなたは私にとって越えるべき壁……いつの日か再び剣を交える日が来ることを心のどこかで願っていたのかもしれません」

「交えるも何も、私は剣を持っていないぞ」

「あなたの拳は鋭き刃、強すぎる風……嵐の拳。それに格闘技有段者は武器を持たずとも力そのものが凶器と見なされるのです」

「有段者でもない」

「なっ!? あれだけの体術を持つあなたが有段者でないはずが……」

「そう言われてもな……とりあえず道場とかに通ったことはないぞ。あー、知り合いになら有段者はいるが」

「その方に師事されたのですか」

「河南子は義理の妹だ。今でも時折悪ふざけで突っかかってくるから、適当にあしらっている」

「河南子……?」

その名前に聞き覚えがあった。

数年前まで私の通っていた体育大学に、一回生で全国大会に優勝した女子がいた。たしか空手……それと合気道の使い手であったはず。

その女子の名が……河南子。坂上河南子。

さかがみ。彼女と同じ名字だ。

「ともかく、刀を持った相手に追い回されるのはもうごめんだ」

「殺気が感じられない人間に真剣を振るうつもりはありません。あの時とは違います」

剣を鞘に収める。

「ですが私にとって武の道は剣の道。体術であなたと互角に対峙することは不可能です」

「よし、じゃあウナギパイだ。それを剣の代わりに使え」

「いいでしょう」

「ま、待て待て冗談だ。食べ物を粗末にしてはダメだ」

「おかしなことを言う。あなたの提案でしょう」

「河南子が言うには私はボケ殺しらしいが……おまえは私以上のようだな」

「?」

「じゃあ竹刀か木刀にしてくれ。剣道場にあるだろう」

「ええ」

「とにかく今は剣道場に行ってくれ。私もこれから陸上部を監督に行かねばならない。部活が終わってから相手になろう」

「では剣道場で待つことにしましょう」

「ああ、終わったらすぐ行く」

こうして私は、再び彼女と対峙することになった。

~~~

彼女と再会してから今年で一年になる。

あの頃の私は……今と変わらない修練の日々を送っていた。

そんなある日、私の耳にひとつの噂話が届く。月夜の狩人(かりびと)がまた現れた、と。

"あの"彼女だと私にはすぐにわかった。

同時に、彼女がまだ昔と同じ未来を歩んでいることを危惧した。

だがそれは杞憂に終わる。以前対峙した時に向けられたような、ピリピリと空気を震わせる強い殺気が、彼女からまるで感じられなかったからだ。

噂の場所でそんな彼女の姿を目にした私は不思議な感情に駆られ、数人の男をのした彼女の前に出ると、あの時のように声をかけた。

「また会いましたね。月夜の狩人」

あの時も月明かりだけが唯一の光だった。

昔と同じ出で立ちで目前に現れた私に対し、彼女は少し驚いたような表情をした。

「おまえは……」

「以前とは違って見えますが……あなたの求めている答えは見つかりましたか」

「答えか……自分ではよくわからないが、あの頃の私とは変わったつもりだ」

うずたかく積まれた男たちに目を向ける。先ほど彼女がのした連中だ。

「彼らは?」

「こいつらは私の生徒だ。工業高校の連中と今日ここで喧嘩するという話を聞いてな、こうして止めにきた」

「ずいぶんと乱暴な止め方ですが……言って聞くような者たちでもなさそうですね」

「おいっ! 無視すんな!」

話の途中で横槍を入れる声がした。多数の男たちが、私たちふたりを取り囲むように立っている。

「それでこいつらが、うちの生徒たちの喧嘩相手というわけだ」

「なるほど……」

「聞いてんのかてめぇら!」

「なんでもいい、やっちまえ!」

殺気立った声が周囲に響いても、彼女はまったく動じない。

力なき悪は哀れだ。己の弱さを隠し、群れて行動したところで、その弱さが変わるわけではない。所詮は有象無象だ。

「正義はあなたにあるようですね」

「当然だ。私は先生だからな。道理を教えてやる義務がある」

「では私も、己が正義のために戦いましょう」

彼女に背を向けて剣を構える。

「おい待て。また真剣を振るうつもりか」

「ご心配なく。峰打ちです」

剣を逆刃に持ち替える。

カッ。その音が合図となった。

月の光が見守る中、私たちはその身を躍らせた。

~~~

「……」

目を開く。

静寂の道場に、待ち人が来た。

「待たせたな」

「いいえ」

「ちゃんと顧問の仕事はしたか?」

「今の私にできうる限りのことはしました」

顧問とは言っても、やはりまだ私は修行の身。

そこで部員には普段私のしている基礎をさせた。

礎を打つこと千遍……自ずとその身に真技が備わる。

基礎をおろそかにしては、真の技は習得できない。

「ではさっそく始めることにしましょう」

「約束だからな。仕方のない奴だ」

十年ぶりに、彼女と対峙する。

私があの敗北から学んだもの……それは相手の反撃を招く間合いでの攻撃の危険性。

あの時、私は相手の力を見誤って一気に間合いを詰め、結果、剣を折られることになった。

粉骨砕身の一撃ですべてを終わらさねば、必ず反撃を受けることになる。そしてその反撃が致命的なものになる可能性もあるのだ。

「"風の剣"、参る……!」

木刀を上段に構える。

剣とは、風のようなもの。

風には色も形もない。

その存在をどうすれば知ることができる? 家や……すべてのものを吹き飛ばすのか?

その必要はない。

風の存在を知らしめるには、ただ木々の葉をかすかに揺らせばいい。

それで十分。

大地は風を呼び……木々はそれに応じて葉を揺らす。

大地は"心"、木々は"身体"――そして風は"剣"。

一撃必殺の極意、それが"風の剣"!

「っ!」

私の乾坤一擲の太刀を、彼女は紙一重で避けてみせた。

身を屈め、高く宙に跳ぶ。

今の一撃が見えていたのか!? しかし……

「空に跳ぶとは……下策でしたね!」

素早く逆手に持ち替えて、返す刃で彼女を狙う。

空中では身体の動きが地上ほど制御できない。そして地球に重力がある以上、物体は必ず落ちてくる。狙うはその着地点。

「はぁッ!」

私の返し刃を察知した彼女が吼える。

彼女の気に、道場内の空気が震えた。

一点に集中させた精神――練気。私のそれよりも大きなその力が彼女の足先に集中し、重力に逆らって身体を空中にとどめる。

「フン!」

矢継ぎ早に彼女は足で横薙ぎに空を切る。

ごぅっ!

風切り音を立て、彼女はまるで空中を飛ぶようにして私の背後に着地した。

「恐ろしく鋭い剣技だな。たとえ木刀でも当たったら一撃で失神するぞ」

背後に降り立った彼女が、私の髪留めをほどく。

剣を落とし、がっくりと床に膝をついた。束ねていた長い髪が、うなだれた顔を隠すように体の前に垂れ下がってくる。

「また私の負けですね。これでも修練を重ねてきたつもりですが……あなたはさらに上を行っていたようです」

「いや、それは正直あまり嬉しくないんだが」

「ですが今回のこの敗北、私には得るものがありました」

この闘いで、私の求める未来がわずかに見えた気がした。

髪をかきあげ、立ち上がる。

「あなたの未来、これからも見届けさせてもらいます」

「好きにしろ」

「……剣道部の顧問として」

続けて言った私の言葉に彼女は目を見開く。そんなに意外だろうか。

やがて、悪びれもせず「じゃあ、私が悪じゃないんだ」と言ったあの時と同じように、にっこりと微笑んだ。

「同年代の同僚ができるのは嬉しいぞ。歓迎する」

「これからもよろしく、坂上先生」

「ああ、よろしくな」

彼女の求めていた未来。

それが今、この場所なのだとしたら。

私の求める未来もまた……今、この場所にあった。

剣の道は……真の正しき強さへの道は、まだまだ遠い。

到達点の見えないその道を、私はこれからも歩み続ける。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

CLANNAD10周年記念SS第4弾、光坂智代編に登場する女剣士アフターでした。仮に楓と名づけてますが。

風の拳ならぬ風の剣とか明らかにネタに走ってる部分もありますが、基本的には智代の未来補完がメインです。このふたりは結構気が合いそうだったので、ライバルとの共闘とか勝負の決着とか、よく見るシーンを書いてみました。暴れん坊将軍の逆刃に持ち替えるシーンが好きだった。