「少しは休んだらどうかね、ミス・イチノセ」

何度も聞いた文句が、今また教授の口をついて出た。

「休みならちゃんと取っています」

「そうではない。もう何年も帰っていないのだろう? 故郷に帰らないのかね」

「はい」

即答する私を見て、教授はため息をつく。

「……ふぅ、仕方ない。悪いが私は帰らせてもらうよ。妻と子供が家で待ってるのでね。研究室の鍵は君に預けておくから、帰りたければいつでも帰りたまえ」

「はい。おつかれさまでした」

「……まったく、ジャパニーズは働きすぎる」

教授は小声でぼやきながら研究室を出ていった。

「……」

がらんとした広い研究室に、たったひとり残される。

それでも私に立ち止まる時間は許されていなかった。

CLANNAD 10years after ~ことみ~

交換留学で日本を離れて十数年。

お父さんとお母さんが確立した理論――発表前に幻となった超統一理論の確立を目指して、私はここ……アメリカはペンシルバニア州フィラデルフィアにある大学で研究を続けていた。

ここで研究を続けてもう十年になる。一般的な形での成果は出ているが、私が満足する成果はまだ出ていない。しかし、一生を費やしても理論を確立させる。それが、"あれ"を燃やしてしまった罪を償うために私ができる唯一の方法だから。

「……」

机の上に山のように積まれた書類へと目を向けると、私は作業を再開した。

書類の山を上から崩して、一枚一枚確認していく。

そして必要な資料を見つけると、私はハサミを取り出す。

これはお父さんの理論が書かれた資料。お母さんがお父さんの助手をしていた頃の理論なので、一ノ瀬鴻太郎個人の名義で書かれている。

「ごめんね……」

一言謝ってから、資料にハサミを入れた。

最初は本に対して謝っていた私だったが、最近はだんだん何に対して謝っているのか自分でもわからなくなってきていた。

作業が一段落ついたところで時計を見ると、昼をとうに過ぎていた。

また時間を忘れて研究に没頭してしまったようだ。昼食を摂るために研究室を出る。

「ことみくん」

研究室の外に出たところで紳士風の男性に呼び止められる。見知った顔、私の後見人だった。

思わず緊張で身体がこわばる。

この人には昔からいろいろと世話になっているが、私は苦手だった。

それは小さい頃の記憶のせいかもしれない。

『わるもの』でないことは、今ではわかっている。私を気にかけてくれていることもわかる。

それでも、やっぱり苦手だった。

「あっ……」

ふと後見人の手にあるものが目に入り、私は思わず声をあげた。

「それ……」

指差す私に、後見人は無言で頷いた。

ジュラルミン製の鞄。

角がへこみ、金属のつやはなくなり、持ち手のプラスチックは傷だらけで、ちょうつがいの角は錆びてしまっているけど、それは間違いなくお父さんの鞄だった。

無意識に、ぎゅっと手に力が入る。

「昨日、研究所に届いたんだよ」

後見人と一緒に研究室へと戻ると、後見人は鞄を机の上にそっと置きながら言った。

「あの日、博士が飛行機に持ち込んだものであることも確認させてもらった。それで一刻も早く君に渡さなければならないと思ってね。急に来て悪いとは思ったが、届けに来た」

後見人が話している間、私はずっと鞄を見ていた。

言いたいこと、訊きたいことはたくさんある。それでも最初に何を言ったらいいのか、私にはわからなかった。

「論文が、入ってるの?」

悩んだ末、私にとって最も訊きたいこと……あるいは最も聞きたくない答えを導き出すかもしれないことを、感情を必死に押し殺しながら口にした。

「……」

後見人は何も答えない。その顔を見ることが私にはできなかった。この沈黙が答えなのだとしたら……。

「ことみくん……鞄を開けてごらん」

不意に聞こえた後見人の言葉に、私の身体が無意識にぴくっと動いた。

それは恐れ。怖かった。

この中に入っているのは、きっとあの論文。私が燃やしてしまった控えの、元となったもの。

それが見つかってしまったら、私はどうなるのだろう。

お父さんとお母さんの影を追い続けてきた私の研究も、ここで終わるのだろうか。

「…………」

それでも。

私はそれと正面から向き合わなければならない。

ずっともうひとつの世界……言うなれば幻想第四次を求めてきた。そうしているうちに、私は現象第三次……現実から目を背けていたのかもしれない。

意を決して私は鞄に手をかけ、その現実を開け放った――。

「あの子が鞄を研究所に届けてくれたんだよ」

大学を出ると、校門の前に小さな女の子が立っていた。私と同じ東洋人のようだった。

手持ち無沙汰で日傘をくるくると回していた女の子は、鞄を持った私に気づくと元気に駆け寄ってくる。

「大切な思い、届いた?」

女の子が私を見上げて言ったその言葉に、また涙がこぼれた。

鞄の中にあったのは論文ではなく、大きなくまのぬいぐるみと一通の封筒。お父さんとお母さんの大切な思い……私への思いだった。

その思いをこの子は感じ取って、ここまで届けてくれたのだろう。

「届けてくれて……ありがとう」

「ううん。お礼ならメキシコシティの『ミュース』って雑貨屋さんに言って。あたしは届けただけだから」

「うん、その人にもお礼を言わなきゃ。でも、あなたにもありがとう……なの」

涙で視界が滲んでいく中、私はせいいっぱいの笑顔でお礼を言った。

「どういたしまして。それじゃ、あたしはもういくね。いきたいところ、まだまだいっぱいあるから」

「どこへいくの?」

「次はカナダかな? 世界じゅうの国を旅してるの」

女の子は大きなリュックサックを「うんしょ」と背負い直すと、元気いっぱいに歩き出す。

「本当にありがとうっ」

涙を拭うと、大きく手を振って女の子を見送る。

こちらを振り返った女の子はそれに応えるように笑顔で大きく手を振ると、背を向けて大通りのほうへと去っていった。

世界はハープで満ちていて、そのひとつひとつがそれぞれ異なった音を奏でている。そうしてあらゆる音が複雑に響き合い、たったひとつの調べが生まれる……

そのハープを奏でているのが、"神様"なのだという。

だとしたら、その音を……思いを伝えてくれたあの女の子は、"天使"なのだろうか。

去っていく女の子の後ろ姿に、"光"が見えた気がした。

次の日。

私は長期休暇を取ることにした。

鞄を届けてくれたあの女の子と同じように、私も旅に出ようと思う。

お父さんとお母さん……たくさんの人の思いが詰まったこの鞄と一緒に。

鞄が旅してきた道筋を辿る旅へ……。

***

お父さんの言葉通り、世界は美しかった。

知識として知っている場所、書物の写真やテレビのモニター越しで見たことのある場所……それらはすべて、この世界に実際に存在していた。

そんな当たり前の事実を、この目で見て、この身で感じる。

世界はただここに"ある"のではなく、ここに"いて"、人と共に"生きている"ということを……私は知った。

そして時は流れ……

長い、長い旅の末。

旅の終着駅は……私の帰る場所だった。

古ぼけた玄関。雑草の生い茂る庭。あの頃の見る影もなくなってしまった家。

一度は手放そうと帰国したけど、そこで偶然出会った子供たちと話したこともあって結局は手放さなかったこの家。

お父さんと、お母さんと、私が暮らしていたこの家……。

目を閉じると、幼い日の穏やかな日常が脳裏に浮かんできた。

お父さんとお母さんが見つけた、この世界そのものをあらわす綺麗な言葉。

私はその言葉を求めてひたすら研究を続けてきた。

でもこれからは私自身の言葉でそれをあらわしてみたい。長い旅を経て、私はそう思うようになった。

ずいぶん遅れてしまったけど、もう一度始めよう。

お父さんと、お母さんと、私の生まれ故郷であるこの町で。

「お父さん、お母さん……」

私と、この鞄の、旅の終着点で……私は新たな一歩を踏み出した。

「……ただいまっ」

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第3弾、ことみアフターでした。しかも初のことみSSです。難しかった。

トゥルーエンド後というか渚シナリオ後なので、ことみは『交換留学で渡米し、そこで研究を続けていた』と想像しています。鞄の届く時期がことみシナリオとは大幅に遅れてますが、朋也の選択によって大きく未来が変わり、誕生日前にことみは留学したため行き違いになった、みたいな感じで。鞄の中身に関する描写は原作通り書いてもしょうがないのでばっさりカット。

ことみの十年間は基本的に止まったままでしたが、紳士と普通に話せるようになっている点や父の鞄をひとりでも開けることができた点が、一応ことみが大人になった部分という私的想像です。話の都合上、という身も蓋もない事実もちょっぴりあるけど。

そして実を言うとこれが一番書きたかったところ、以前汐SSでもちょこっと触れた汐とことみの出会いを補完しました。

他の10years afterと比べると幸せ度低めですが、『家』に帰ってからがことみの幸せのスタート、と想像してます。