何もない真っ暗な空間に、あたしは立っていた。

なぜこんなところにいるのだろう。

どこまでも続いているように見える闇の世界。

見覚えのないその場所に、あたしは不安になる。

そんなあたしの不安を感じ取ったかのように、闇の中を一筋の光が差した。

光の中、小さな人影があたしの前に立っていた。

忘れもしないその姿に、あたしは息を呑む。

「志麻くん……」

呟くように漏れ出たあたしの言葉が、何もない空間に響いた。

それは大好きな人の名前。

「ずっと、いつまでも……あなたを好きでいます」

あたしの呟きに答えるように、志麻くんが口を開く。

それは久しく聞いていなかった大好きな人の声。

「ずっと、いつまでも……あなたのそばにいます」

そう続ける懐かしい声に、あたしは感極まって抱きついていた。

「志麻くん……!」

「美佐枝さん……」

あたしの名前を呼ぶ声。

闇の世界を照らす一筋の光の中、あたしたちは強く抱き合った。

CLANNAD 10years after ~美佐枝~

「……美佐枝さんっ、美佐枝さんっ!」

あたしの名前を呼ぶ声。

布団の中でまどろむあたしを呼ぶ甲高い声。

半ば反射的に枕元の時計を見る。まだ六時過ぎだった。

「なによぉ……こんな朝早くに……」

もぞもぞと布団から這い出す。

「……って、うわっ!」

両腕の中の温かい感触に思わず声が出る。眠気も一瞬で吹き飛んでいた。

あたしの腕の中にいたのは一匹の猫。あたしが飼ってるわけじゃないけど、いつの間にかここに居ついてしまった虎猫だった。またあたしが寝ている間に布団に潜り込んでいたようだ。

「まーたこんなとこに入ってきて……あたしが寝返り打ってたら押しつぶされちゃってたわよ」

畳んだ布団の上に猫を下ろすと、ようやく目を覚ましたのか呑気にあくびをしていた。

つられてあたしもあくびをひとつ。ベッドから足を下ろして猫を抱きかかえた。

「美佐枝さーん!」

「はいはい、聞こえてますよっ」

猫を抱えたまま立ち上がると、早足で入り口に向かいドアを開く。

「どちらさまー?」

「美佐枝さん大変ですっ!」

ドアの外に立っていたのは、よく知った顔だった。

「あら、春原さんじゃない。わざわざ男子寮まで来て……女子寮に何かあったの?」

「そ、そうじゃなくて……とにかく外を見てください、外っ!」

普段はしっかり者で冷静なこの子がこんなに取り乱すなんて……ただごとじゃない。

彼女の様子から異変を感じ取ったあたしはすぐに部屋の中へ戻って窓の外を見る。

そこには信じられない光景が広がっていた。

「雪……?」

もう春だというのに、雪が降っている。

季節はずれの雪。それはあたしにとって、昔の記憶を呼び起こすものだった。

『ふぅん……じゃあ、今から雪を降らせてみて』

『えぇ?』

『今度は何よ』

『そんなの冬になれば見られるよ』

『春に降ったら素敵じゃない』

『いや、素敵かもしれないけどさ……そんなのすぐ終わるし……。本当にそんな願いでいいの?』

それはあいつとの思い出。

今でも鮮明に思い出せる、短くて小さな恋の思い出。

心の痛みを紛らわすために窓を開けると、ちらちらと舞っている雪が部屋の中に入ってきた。

思わずあたしはそれに手を伸ばす。

雪はあたしの手のひらの上で消えた……ように見えた。

不思議な感覚。

雪なのに冷たくもなかった。むしろ温かかった。

「光……」

思わずその言葉が口を突いて出る。

これがあいつの言っていた"光"なんだろうか。

『このお守りの中に願いを叶えることのできる光が入ってるから、それで願いを叶えてあげろって』

そう言ってあいつはあたしに願いごとを訊いてきた。訊いてきたと言うよりは強要してきたと言うほうが正しいかもしれない。

あの春。この学校であたしたちは出会い、一月にも満たない短い時間の中で恋をして、そして……。

…………。

あいつがいなくなってから、何年の月日が過ぎただろう。

あたしは今も変わらずこの場所にいる。

今もずっと……帰ってくるはずのない人を待ち続けている。

「……?」

光が消えていったあたしの手のひらの上に、いつの間にか猫の手が載っていた。

あたしの手のひらを、猫の手が爪を立てずに掻いている。

「あんたの願いごとは、なぁに?」

あたしの手を一心に掻いている猫に訊いてみる。

にゃあ、と一声鳴いた後、またすぐにあたしの手を掻き始める。

光の雪が降るという幻想的な風景の中、あたしは猫としばらくの間、戯れていた。

光の雪がやんだ頃。

報告してきた本人がなかなか部屋に入ってこないので気になってドアの前に戻ると、春原さんはいなくなっていた。

「……はぁ。人を叩き起こしといて、どっかいっちゃうなんて……」

こういう鉄砲玉みたいなところは、兄そっくりだ。

「すっかり目も覚めちゃったし……仕事するか」

最近めっきり多くなった独り言を合図に部屋の中に戻って着替えを終えると、いつも通りの一日が今日も始まった。

「美佐枝さん助けてっ!」

仕事を始めて十分ほど経った頃、食堂前の廊下でいきなり男子にすがりつかれた。

この子は確か……サッカー部の一年生だったわね。

「何があったのよ、一体」

「追われてるんだ……って来たっ」

怯えた様子であたしの後ろに隠れる。

廊下の角から姿を現したのは、本日二度目の見知った顔。

「あっ、美佐枝さん」

「春原さん、まだ男子寮にいたの? ていうか人を呼び起こしておいてどこ行ってたのよ」

「ごめんなさーい。あまりにもすごい光景に、本来の目的をすっかり忘れてまして……」

「本来の目的?」

「あ、そうそう。こっちにカズくん来ませんでした……って見つけたっ!」

「ひぃ!」

身を縮めてあたしの背後に隠れていた男子を見つけた春原さんは、声をあげてその子を指差したかと思うと、そのまま自分の口元に指を持っていく。

「今日は早朝練習するって言ってたでしょ? ダメだよ、練習サボっちゃ」

「マネージャーが決めた練習メニューがキツすぎるんだよっ」

「この程度の練習内容で逃げ出すようじゃ、国立競技場は目指せないぞ?」

「僕そんなの目指してないっての!」

「サッカー部に入ったからには国立競技場を目指さないでどうする! それでも男かっ!」

「もう勘弁して~!」

押しの一手で言い負かし、春原さんはその子を引きずるようにして寮を出ていった。

あー、あれはもう完全に尻に敷かれちゃってるわ。でも、若いっていいわね……。

あたしはため息をついて、仕事に戻ることにした。

***

あの不思議な出来事から一月ほど経ったある日。

その日は学校の創立者祭で、日曜だというのに朝から大忙しだった。

「ふぅ……」

登校する寮生たちを送り出してから仕事を大方済ませて玄関前で一息ついていた時。

「おつかれさま」

待ち人が姿を現す。

「やっほー。来たわよ、美佐枝」

「お久しぶり~」

ハキハキとした声と、間延びした声。一見派手に見えるが細かいところはおしゃれに決めた服装と、ふりふりがいっぱいついた少女趣味丸出しな服装。久しぶりに会ってもこんなところは昔とぜんぜん変わっていない。親友のサキとユキだった。

「いらっしゃい。ほんと、久しぶりね」

「相変わらず忙しそうだね」

「まぁね。今日は特に忙しいわ」

「創立者祭、だもんね」

サキが坂の上へと目を向ける。ユキも同じ方向を見ていた。ふたりの目に映るのは、今も変わらない思い出の景色だ。

「それにしても創立者祭の日に同窓会なんてさ、粋な計らいだよね~」

「そうそう。現役時代は忙しくてお祭を楽しめなかったもんね」

「忙しかったのはあたし。あんたたちは遊びまくってたじゃない」

「あれ? そうだったっけ?」

大げさな身振りでとぼけてみせるサキ。こうやって場を明るくしてくれるのが、こいつのいいところだ。

「あたしにとっては毎年のことだけど、あんたたちは久しぶりでしょ? 創立者祭、楽しんできなさいな」

「こらこら、あたしたちふたりで行かせる気?」

「久しぶりの再会だっていうのに美佐枝ったら冷たい~」

ユキが袖にすがりついてくる。こらこら引っ張るな。伸びちゃうでしょーが。

「んなこと言ったって、あたしはまだ仕事が……」

「いいからいいから」

「そうそう。久しぶりなんだし、また三人で……あっ」

サキが玄関前に座り込んでいたそいつに気づく。

「この子……あの時の猫?」

「そうよ」

「まだ美佐枝のそばにいるんだね……」

ユキも寄ってきて、猫の前にしゃがみ込む。

「うん、ユキには言ってなかったっけ? あたしがこの町に帰ってきたら、また現れたのよ」

「待ってたんじゃない? 美佐枝が帰ってくるのをさ……」

「まさか……でもまぁ、妙に懐かれてるけどね」

話題の中心の当人(当猫?)は、きょとんとした顔であたしたちを見上げていた。

「相変わらず可愛い顔してるね~」

ユキが猫を抱き上げる。

「ほらほら~、あたしのこと覚えてるみたい。こんなにじゃれてきて」

「偶然よ」

「相変わらず美佐枝は夢がないなぁ」

「いい年した大人が夢とか言ってもね……」

「ユキはいつまでたっても夢見る乙女なのよ。そういうとこが旦那に受けたんじゃない?」

「もうっ、そんなんじゃないってば~」

一昨年の秋、ユキは職場の同僚とめでたくゴールインしていた。あたしたちの中で一番乗りだ。

「ラブラブだし、そろそろ子供できるんじゃない?」

「まだ早いよ。もうちょっと新婚生活を満喫したいかな~、って」

「はいはいごちそうさま。独り者にはツラい話だわ」

「でもさ美佐枝、ユキの旦那、実は年上らしいのよ」

「えぇーっ!? そうなの?」

結婚式で見た新郎の顔を思い出す。てっきり年下だと思っていた。

「ユキ、あんた年下が好きなんじゃなかったの?」

「うん、まぁそうだったんだけどね……ま、いいじゃない別に」

自分の話が恥ずかしいのか、顔を赤くしたユキはあからさまに話を逸らした。

「あ、ねぇねぇ、名前は?」

「何が」

「この猫」

「つけてないわよ。そのうちいなくなるもんだと思ってたし」

「名前、つけてあげようよ」

「ええ? 今さらつけてどうすんのよ」

「名前がないと呼びづらいじゃない」

「呼ぶような機会なんて別にないし」

「それでも名前はつけないと。『名前は大事だぞ。ちゃんとつけろよ』ってどっかのチームのリーダーも言ってるし」

「知らないわよ……そんなの」

ユキは猫と向かい合って、にんまりと笑顔を浮かべる。

「じゃ、あたしがつけたげるね。えーっと……レノン!」

「却下」

「なんで美佐枝が却下するのよ~」

「安直な名前つけるなってこと」

「別にいいじゃん。『大事なのは名前がじゃない。名前をつけることが大事だ』ってさっきの人も言ってたし」

「意味わかんない」

その手に抱いた猫を見つめてうんうんと唸っている。まだ諦めていないようだ。

サキのほうを見ると、させてやんなさい、とのアイコンタクト。ため息が出た。

「えーっと……虎みたいな縞模様だから、とら!」

「まんまじゃないの」

「じゃあシマ!」

「え……?」

思わずツッコミも忘れて呆然としてしまう。

「こらユキッ!」

「あっ……ごめん、美佐枝」

「ううん、いいのよ……」

シマ……志麻くん……。

猫を見る。じっと、あたしのほうを見つめていた。

…………。

……。

どれだけの間、見つめ合っていただろう。

あたしがこの子に名前をつけなかったのは……怖かったからかもしれない。

またいなくなってしまうことが。突然の別れが。

そうやって過去からずっと時を止めたまま、あたしは生きてきた。

でも今は……。

あの日、この子と一緒に見た光の雪。

その時に訊いたこの子の願い……。

あたしはあの別れの日以来、初めて未来に目を向けた。

この子と、一緒に生きよう。

たとえそれが短い間だったとしても、いつかは別れの日が来るのだとしても、共に過ごした日々の思い出はいつまでもあたしの心に残り続ける。志麻くんとの思い出がいつまでも色褪せないように。

「よし、今日からあんたの名前はシマよ!」

ユキの手から受け取った猫を抱え上げる。

名前が気に入ったのか気に入らないのか、あたしを見つめ続けている猫――シマは、にゃあと一声鳴いた。

初めて懐かれたあの頃から十年も経つというのに、今さら名前をつけるなんてなんだかおかしいけど、でも……。

不思議と心躍るような……そんな気分だった。

「それじゃ、この子も連れてこうよ」

「賛成~。美佐枝もシマちゃんも、一緒に創立者祭へ行こう!」

「仕方ないわねぇ」

あたしと、サキとユキ、それとシマは、創立者祭で賑わう母校へと向かう。

学校へと続く長い坂道の下から空を見上げると、そこには青い空と眩しい光。

坂の上には、あの日に見た光が溢れているような気がした。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

CLANNAD10周年記念SS第16弾、美佐枝アフターでした。

猫の平均寿命を考えてしまうとどうやっても暗い未来しか思いつかず難航しましたが、途中からそんな現実的なことを考えるのはやめました。魔獣ネコマタに寿命などない! というか今作の時系列だとまだ老齢レベルだね。

今回はこれまで書いたSSでも少し触れた汐が生まれた日の奇跡について、私なりの想像をはっきりと書きました。光の雪についてはアニメ感想記でも予想として何度も書いた(残念ながら予想とは大きく異なる結果だった)けど、渚エピローグで汐が無事生まれた時、朋也にしか見えないはずの光が町の住人にも見えたと想像しています。実際セリフからして渚には見えたようだし。

そして風子シナリオアフターでは演劇部に入っていた芽衣ちゃんですが、トゥルーエンドアフターではこんな感じです。10years afterではいろんなキャラの未来での繋がりを書きたかったので、今作でトゥルーエンドアフターの私的想像世界をまたひとつ広げることができて楽しかったです。