隣町の病院。

最近まで風子が――妹が入院していた病院に、俺たちは再び来ていた。

「ユウスケさん」

「ん?」

「おねぇちゃん、大丈夫でしょうか……」

「大丈夫だ」

自分に言い聞かせるようにそう答える。

待合室で診察が終わるのを待っている俺と風子は、なんだか小学生の兄妹のようだ。

やっぱり我が家は公子が家にいてくれるからこそ成り立っているということを改めて思い知る。

だが公子の夫として……そして風子の兄として、ここは俺が風子の不安を拭ってやらなくてはならない。

「少し気分が悪くなっただけのようだからな。疲れが溜まっていたんだろう」

俺の言葉に風子の不安はいくらか和らいだようだ。

十数分後。診察室から出てきた公子の表情を見て、風子が安堵の息を吐く。

顔色も行きがけに比べ随分良くなっている。俺もほっと胸を撫で下ろした。

「祐くん……」

「大丈夫か」

「二ヶ月ですって」

「……は?」

帰ってきて早々の公子の言葉に、思考が停止する。

「私たちの……赤ちゃん」

「……ぅ」

風子と顔を見合わせているうちに、再び思考が可動し始める。言いようのない衝動が俺の全身を一瞬で駆けめぐった。そして……

「ゥオォォォォーーーーーーッ!」

ここが病院内であることも忘れ、俺は思わず魂の叫びをあげた。

CLANNAD 10years after ~芳野~

「おめでとうございます」

「ん?」

「子供ですよ、子供」

事務所で会うなり、岡崎がそう話しかけてきた。

どういうネットワークが形成されているのか……。

自分が言うより先に岡崎が知っているなんて。

「ありがとう」

「汐とも――うちの娘とも仲良くさせてあげたいです」

「もちろんだ。生まれる前から友達がいるというのも悪くない」

「ですねっ」

俺の子供が娘なら、きっと親友になれるだろう。息子なら、幼なじみから恋に進展しても一向に構わない。むしろ息子の嫁になってもらいたい。

そんな早すぎる未来予想図よりも、今は自分のことが問題だった。

「しかし……これで俺も夫として一人前にならざるをえないな」

「芳野さんなら大丈夫っすよ」

「以前おまえに偉そうなことを言っておいてなんだが、いざ自分のこととなるとなかなか自覚が持てないもんだな。覚悟はできていたつもりなんだが」

「俺だってまだそんなに自覚があるわけじゃないっすよ。ただ、芳野さんに言われた『産まれてくれば嫌でも自覚することになる』っていうのは本当にそうでした。なんていうか……身が引き締まる思いっていうか」

「そうだな。人は誰もがひとりきりでは生きていけない……誰もが支え合って生きている……それが家族だ。そして……」

俺は軽く目を閉じ、俺たち家族の情景を脳裏に浮かべる。

「……愛だ」

「そろそろ出ないと遅れるっすよ」

目を開けると、いつの間にか岡崎は着替えも終えて事務所の外にいた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

家に帰ると愛する人が俺を出迎えてくれる。そんな当たり前のことで、俺の心はじーんと温かくなる。

「おかえりなさい、ユウスケさんっ」

「ああ、ただいま」

少し遅れて、ばたばたと騒がしく玄関に現れたのは風子だ。相変わらず風のように元気だった。

そして、そんな風子の後ろにはひとりの女性が立っていた。

「こちら、八木さんです」

「こんにちは」

突然、知らない女性を紹介されて少し戸惑う。

「こっちは祐介さん。私の……夫です」

そう相手に紹介される。

「初めまして。芳野です」

こういう時、すぐに愛想笑いを浮かべられるほど器用じゃない。

俺に笑顔を向ける八木さんに対して、会釈しながら挨拶を返した。

「公子さんも良い人を見つけましたね」

「はいっ、ありがとうございます」

目の前で自分のことを話されるのは気恥ずかしい。

公子と仲良く話をしている女性……この人が話に聞いていた、公子の出産の手助けをしてくれる助産婦らしい。

公子の学生時代の友人で、今は隣町で助産院を開業しているという。

産婆という言葉もあるくらいだ。もっと年配の方を想像していたのだが、公子と同年齢なので当然若い。

それでもやっぱり公子のほうが若く見えるな。

「定期的な検診は、うちの助産院まで来ていただくことになります。場所は……知ってますよね?」

「ええ、知っています」

失礼なことを考えているうちに話が進んでいた。

「来週の月曜日なのですが、大丈夫ですか?」

いきなり俺のほうにも話を振られて驚く。

「あ……ええ、月曜は公休ですので」

「では来週の月曜日、お父さんも一緒に来ていただけますか」

「風子も行っていいですかっ」

「もちろん。ご家族で来てくださいね」

八木さんの言葉に、風子だけでなく俺と公子の顔も綻んだ。

「では今日はこれで……」

「ありがとうございました」

玄関から出ていく八木さんを三人で見送る。

俺たち家族のために、ほかの人たちが動いてくれる。父親になるという実感が、また少し強くなった気がした。

風子が部屋に戻り、夕食の準備をしている公子の背中をリビングから見ながら一日の疲れを癒す。

「お父さん、か……」

思わず口を突いて出た言葉に、公子が振り返る。

「どうしたの?」

「いや、さっき普通にお父さんと呼ばれて、俺も父親になるんだな……と思ってな。今日、岡崎とそんな話をしたばかりなんだ」

「岡崎さんのほうが父親としては祐くんより先輩だもんね」

「そうだな……」

岡崎が父親になってから一年あまり。

大きな苦難を乗り越えたあいつは、一人前の男の顔になった。

俺の見込んだ通り、仕事人としても随分と成長した。

それはあいつの努力と責任感が、支え合える人が増えたことで……父親になったことで強くなったからだろう。

「俺も岡崎に負けてられないな」

「頑張ってね、お父さん」

「なんだかくすぐったいな。思ったよりまだまだ実感が弱いらしい。感じてみていいか? 俺たちの子供」

「構わないけど……まだ胎動には早いよ?」

夕食の準備の手を止めて俺のそばに座った公子の膝に体を預け、そのお腹に耳を当てるようにして抱き寄せる。

目を閉じると、新しい命の鼓動が聞こえてくるようだった。

「もう……祐くんは甘えんぼさんね」

「そうかもしれないな」

小さい頃から親がいなかった俺は、母親に甘えたような記憶もない。

だからというわけではないが、公子の母のような優しさに惹かれた部分がまったくないと言えば嘘になるだろう。

「……失礼」

「ふぅちゃん!?」

近くから声がして、ふたり飛び上がるようにして離れる。

「いつからいたんだっ!?」

「『お父さん、か……』とユウスケさんが呟いたところからです」

「ほぼ最初から!?」

ぜんぜん気づかなかった……。

「おねぇちゃんとユウスケさん、アツアツです」

「ああ、アツアツだ。触れるとヤケドするぜ?」

開き直ってノロケてやった。

「それはよかったです。おめでとうございます」

「あ、ああ……ありがとう」

あっさり祝福されて、逆に自分のほうが恥ずかしくなってくる。

「ですので、名前を考えましょう」

「……は?」

「話が繋がってないんだけど……何の名前?」

「おねぇちゃんとユウスケさんの子供の名前です」

「まだ早いんじゃない? 男の子か女の子かもわからないし」

「両方考えればいいです」

「それか、男の子でも女の子でも通じる名前を考えればいいな」

「もう……ふたりとも気が早いんだから……」

そう言いつつも、まんざらではない様子だ。

「そこで風子に妙案があります」

「ダメ」

「まだ何も言ってないですっ」

「言わなくても、ふぅちゃんの考えてることはわかります」

「まぁまぁ、聞くだけ聞いてみようじゃないか。どんな名前だ?」

「海の星と書いて……ヒトデですっ!」

「……」

命名、芳野海星。

「ダメだ」

「ユウスケさんもですか、ショックですっ」

「ふぅちゃん、いくら自分が好きだからって、子供にまでそれを押しつけちゃダメよ」

「そうだな。名前というものは、その子が生涯を共にするものだ。その子のことを第一に考えて名付けてやらないとな」

「そうでした……風子はヒトデ大好きですけど、その子がヒトデ大好きになってくれるかどうかはわからないです。それによく考えたら、おねぇちゃんとユウスケさんの子供に風子が口出しするのはよくないような気がします」

そう言って風子はしょんぼりと俯いてしまう。

「そんなことはない。風子も俺たちの家族だからな。これから生まれてくる新しい家族について語り合うのは大事のことだ」

「それに、ふぅちゃんが私たちに『子供を作ってください』って言い出したんでしょ? ちゃんと一緒に考えてね」

「ユウスケさん……おねぇちゃん……はいっ、風子も一緒に考えますっ」

「ふっ、いい返事だ。人は誰もがひとりきりでは生きていけない……誰もが支え合って生きている……それが家族だ。そして……」

俺は軽く目を閉じ、俺たち家族の未来の情景を脳裏に浮かべる。

「……愛だ」

そこには新しい家族……俺たちの子供がいた。

「愛……」

目を開けた途端、公子が呟く。

「私たちの子供、女の子だったら『愛ちゃん』っていうのはどう?」

「愛ちゃんですか、かわいいです」

「愛か……」

人を愛し、人から愛される。そんな俺たち家族の思いが込められた名前だ。

「そいつはいいなっ」

満場一致で女の子の名前が決まったところで、風子が身を乗り出してくる。

「次は風子が男の子の名前を考えますっ」

「ウミウシ、なんて名前はダメだからね」

「芳野ウミウシか……そいつはダメだな」

「もうっ、今度はちゃんと考えますっ」

「ふふっ」

「はっはっはっ!」

こうしてひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ……

公子のお腹の中で息づく小さな命は、すくすくと大きくなっていった。

そんなある日。

リビングから公子の声が聞こえたので顔を出す。

「呼んだか?」

「違いますよ。愛ちゃんに話しかけていたんです」

公子が目立ち始めたお腹を優しくさする。

先日の検診で俺たちの子が女の子であることが判明し、この子の名前は以前考えていた通り『愛』に決まった。男の子の名前を考えた風子は少し残念がっていたが。

「赤ちゃんもこのくらいになると耳がちゃんとできていて、外の音が聞き取れるんですよ」

「そうなのか」

「胎教といって、音楽を聴かせてあげるのもいいんです」

言いながら、まっすぐに俺を見つめてくる。

「祐くん……」

次に言わんとすることが俺にはわかった。

まったく、この人にはかなわないな。

「この子に歌を聴かせてあげてください」

「ああ……」

音楽と共に全力で生きていたあの熱い日々から十年……。

まるで坂道を転げ落ちるように俺はすべてを失い、すがるようにして生まれ故郷のこの町に帰ってきた。

そこで俺は、一筋の光を見た。

それは俺にとって希望の光だった。

自らが犯した過ちによってすべてを失った俺に残された、最後の希望。

消えてしまったと思った希望は、今もまだ手の届く場所にあった。

いや、最初からすぐそばにあったんだ。俺がそれに気づかなかっただけで。

俺は目の前の光に向けて、懸命に手を伸ばす。

『おかえりなさい、祐くん』

光を――希望をその手に抱きとめて、俺は泣いた。

涙が後から後から溢れてきて止まらなかった。

絶望の淵にいた俺は、この町で再び生きる希望を見つけた。

音楽と引き離されては生きていけない……それまではそう思っていた。

だが俺は、今もこの町で生きている。

今も……愛する人たちのそばで歌い続けている。

俺はこれからも歌い続けるだろう。

自分が歌いたい歌、自分が暮らす町の歌、自分が愛する人たちの歌……小さなラブソングを。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第17弾、芳野アフターでした。

芳野一人称は今回で二作目。これまで結構いた一人称初経験のキャラクターよりはマシでしたが、本編で芳野と公子が直接会話しているシーンは極めて少ないので今回もその辺を想像しつつ書いてみました。公子アフターや風子アフターとも繋がりがあります。

CLANNAD MEMORIESにも書いたけど芳野さんとりえちゃんは境遇に近い部分があるので、りえSSでも使った表現を再利用してみた。