「おかあさん」

先生を間違えてそう呼んでしまい、恥をかくのは子供の頃によくあることだと思う。

でもまさか、自分がそう呼ばれてしまう日が来るなんて、思いもしなかった。

思わず「え?」と素で訊き返してしまい、間違えてあたしを母と呼んだその子も困惑していた。

動揺を隠せないあたしを見て、子供たちもその子を笑ったりからかったりすることもなく、ただ不安そうにあたしを見上げるだけだった。

結果的には良かったのかもしれないけど複雑な気持ちだった。

それは最近ショックな事実を知ったからかもしれない。

あたしは隣の席をじっと見つめる。

「……? どうしましたか、藤林さん」

あたしの視線に気づいた同僚の西野風子(外見はともかく中身はあたしと同い年とは思えないほど子供っぽい性格だけど、実は一児の母だったというショックな事実)が、そう声をかけてきた。

「うん、ちょっとね……」

藤林さん、か。そういえば昔はそう呼ばれるとあたしか椋か紛らわしいからって、名前で呼ばせてたっけ。

今は別々の道を歩んでいるあたしと椋だけど、もし同じ道を歩んでいたとしても、もう紛らわしくはないのよね……。

なぜなら今のあの子は『藤林』じゃないから。

悲しい事実を再認識して、ちょっと落ち込む。

「今日、うちのクラスの子に『おかあさん』って呼ばれちゃったのよ」

「ウルトラの母ではなくて、ですか」

「……は?」

またこの子は突拍子もないことを言い出す。

だけどそこに反応すると話があさっての方向に飛んでいってしまうので、敢えて聞かなかったことにして話を続ける。

「その子、あたしに懐いてたから思わず呼んじゃったんだろうけど、呼ばれたあたしのほうが動揺しちゃってね……」

「それで、その子はどうしましたか」

「どう、って……どうもしないわよ。戸惑ってるような、恥ずかしがってるような……そんな感じ」

「そのまま『おかあさんだよね!?』と詰め寄ってきませんでしたかっ?」

「こないわよっ!」

「そうですか、残念です」

「なんでよ……」

この子と話してると、話の本筋すら見失ってしまうことを再認識した。

「お母さんと間違われるくらいに慕われているんです。とても誇らしいことだと風子は思います」

「そうね……そう思うと嬉しいわね。実際は結婚すらしてないけど」

「藤林さんは結婚したいんですか」

「ちょっとっ! 乙女に向かって聞き捨てならない質問だわね。したいに決まってるでしょ!」

「最近の若者はあまり結婚したがらないと聞きました。面倒くさいんだそうです」

「どうせあたしは最近の若者じゃないですよっ! (ピーーーーッ)歳よ! (ピーーーーッ)歳独身よこんちくしょう!」

「同い年の風子に向かって無意味な主張はやめてください」

くぅーっ、やけに落ち着いててなんだかムカつくわね。これも既婚者の余裕かしら。

そう、あたしは今日で(ピーーーーッ)歳になる。

正直この年になると誕生日なんて忘れ去ってしまいたいけど、やっぱり忘れることなんてできず謎の焦燥感に襲われるのだった。

CLANNAD 10years after ~杏~

「おばちゃーん!」

放課後。

教室の外から聞こえてきた聞き覚えのある声にあたしは全力ですっ飛んでいき、声の主にげんこつを食らわせた。

「大声でおばちゃん言うなっ」

「あいたっ」

「先生と呼びなさい先生と」

「だってボク、幼稚園の時おばちゃんのクラスじゃなかったもん」

「くぅーっ、口の減らない子ねっ」

柊俊平。

椋の息子で、あたしの甥。この子がそう呼んでいる通り、事実あたしは俊平の伯母にあたる。

だからと言って「おばちゃん」などと妙齢の女性に対して言う呼称ではない。何度もそう言い聞かせてはいるのだが……。

「杏先生、こんにちはっ」

「ほら! クラスが違おうがこうやって先生と呼べっていつも言って……って、あら? 汐ちゃんじゃない」

俊平の隣に立っていたのは、学生時代の友人の娘にしてあたしの教え子、岡崎汐ちゃんだった。

「なんで俊平と?」

「今日はあたしが俊平くんのお母さんの代わりなの」

「へっ? 椋の?」

俊平を見ると、なんだか落ち着かない様子でもじもじしていた。

「ね?」

「う、うん……」

汐ちゃんの可愛いウィンクに、俊平は顔を赤くしている。

「それにしても汐ちゃん、日焼けしたわねぇ。夏休みに海にでも行ったのかしら?」

「ううん、砂漠。すごく暑かった」

「砂漠!?」

夏休みに行く場所としては聞き慣れない単語が急に出てきて驚く。

「ピラミッドを見てきたの。すっごく大きかった」

両手を大きく広げて、汐ちゃんはその大きさを示してみせる。

ピラミッドって……まさかエジプト? 世界旅行!?

「ラクダさんにも乗せてもらったよ。かわいかった。なべやお馬さんの背中と違ってすごく揺れるから最初はびっくりしたけど、すごかった」

「はぁ~……汐ちゃんはすごいわねぇ」

子供らしく嬉しそうに夏休みの思い出を語る彼女だが、あたしはその話の内容についていけず変なため息しか出てこなかった。

「汐ちゃんですかっ!」

そろそろ出てくると思ったけど、案の定風子が現れた。

「ふぅちゃん、こんにちはっ」

「んーっ、汐ちゃん、今日もワイルドですっ」

「うん、ワイルド」

じゃれあうふたりを尻目に、本題のほうを確認する。

「汐ちゃんが椋の代わりってことは、今日は俊平が梢を連れて帰るのね?」

「うん」

「じゃあ梢を呼んでくるわ」

柊梢。

俊平の妹で、あたしの教え子でもある。

姪というひいき目で見なくても、とても可愛い女の子。

控えめでおとなしいけど芯はしっかりしている。まるで小さい頃の椋みたいだ。

「梢ちゃーんっ、今日はお兄ちゃんが迎えに来たわよー」

教室に戻って梢を呼ぶ。

「うん……」

梢は生返事をしただけで、こちらに向かってこなかった。

「梢ちゃん、なにしてるのかなー?」

「っ!」

後ろから覗き込むと、手で何かをさっと隠してしまった。

折り紙でなんか作ってたようだけど……。

あ! 椋へのプレゼントね、きっと。

事情を察したあたしは気づかない振りをして梢に話しかける。

「さあ梢ちゃん、お兄ちゃんが迎えに来たわ。汐お姉ちゃんも一緒よ」

「あ……うんっ」

時間も忘れて一生懸命に作っていたのだろう。お迎えの時間に今気づいた梢は、何かを手の中に隠したままで大きく頷いた。

「それじゃ杏先生、さようならっ」

「ちょっと待って」

ふたりの手を取って歩き出した汐ちゃんを呼び止める。

「念のため、ツバキを連れていきなさい」

汐ちゃんの前に、一頭のイノシシを連れてくる。

「なべの子供?」

「そう、ボタンに似て賢いわよ」

ツバキは汐ちゃんの足元をうろうろしながら匂いを嗅いでいたが、やがて父親と同じ匂いを嗅ぎ取ったのか、汐ちゃんに体をすり寄せた。

「くすぐったいよ~」

「ごふ~♪」

「さっそく懐かれてるわね。さすが汐ちゃんだわ」

「じゃあ先生、ツバキを連れてくね。いこっ、ツバキ」

「ごふっ」

「いってらっしゃい。車と、カラスと、目つきの悪い電気工には気をつけるのよ~」

「はーい!」

「それじゃあね、おばちゃん!」

「おばちゃん言うな!」

俊平の奴、口の悪いところがだんだん父親に似てきたわね。

俊平たちを見送った後、あたしたちは再び机に向かう。

「さっきの子が、藤林さんを『おかあさん』と呼んだ子ですか」

「違うわよ。あの子はあたしの甥。何度言ってもあたしのこと『おばちゃん』って呼ぶのよね」

「それは事実ですから仕方ないです」

「そりゃそうなんだけどさぁ、やっぱ嫌じゃない?」

「風子にも姪がいますから、気持ちはわかります」

「へぇ……前に会ったお姉さんの子供?」

「はい。実家で一緒に住んでいた頃、愛ちゃんは風子のこと『お姉ちゃん』と呼んでくれてましたけど、それはそれで現実とのギャップに苦しみました」

「そんなもんなのかしらねぇ……」

はぁ、とため息ひとつ。

高校時代、男子寮の寮母をしていた美佐枝さんの気持ちが今ならよくわかる。

「まっ、子供の言うこと真に受けてもしょうがないんだけどね。口が悪いのは父親譲りだろうし」

「べらんめえ江戸っ子口調なお父さんなんですか」

「そんな親父っぽくないわよ。むしろ正反対の美青年。でも可愛い顔して毒舌なのよねぇ、あんたみたいに」

「風子、毒舌じゃないです。どちらかというと超舌です」

「どの口が言うか、このこのっ」

「んんーーっ!」

なんでも反論してくるその口を、頬を左右に引っ張って止めておいた。

「ほろほろいいれふふぁ」

「ああ、ごめん」

言われて頬から手を離す。思ったよりも餅肌で頬も伸びるもんだから、止めどころがなかった。

「うちの光一さんも可愛い顔してます」

「あんたの旦那?」

「はい。新しい仕事場に初めて行った時、見学に来た学生と間違われたんだそうです」

「そりゃほんと、童顔ね」

「この前、誰に言われたのか、童顔でなめられるといけないから、と言って急にヒゲを生やし始めました。それで……あ、いえ、なんでもないです」

「ちょっと! いきなり途中で話を切らないでよっ」

唐突に沈黙した風子はしばらく逡巡していたが、あたしが続きを促すように見つめ続けていると、重々しく口を開いた。

「……キスする時ヒゲがちくちくして気色悪いです!って言ったら、次の日には元に戻ってました」

「……」

「……」

「くぅぅーーっ!」

「だから途中でやめたんですけど」

なんであたし、誕生日にこんな精神的ダメージばっかり食らってるんだろ。厄年はまだだってのに。

しばらく無言で仕事を続けていて、ふと思い立つ。

今日は誕生日なんだし、いつもの屋台で一杯やっていこうかな……ひとりで。

「……はぁ」

無意識にため息が出ていた。やっぱり寂しいのかもしれない。

「ねぇ風子ー、今日空いてるー?」

隣の席に声をかけると、風子は手を止めてこちらを向く。

「どこがですか?」

「あんたがー」

二年ほどの付き合いで、この子の変な切り返しにもそれなりに慣れてきたつもりだ。まだまだとらえどころがないところも多いけど。

「あー、でもあんたは娘さんのお迎えに行かないといけないもんね……ダメかぁ」

勝手に自己完結していると、風子が口を挟んできた。

「藤林さん、風子と遊びたいんですか」

「うーん……まぁ、そんな感じ」

「んー」

何やら考え込んでいる。

「遊んだ後、風子に付き合ってくれますか」

「どっか寄るところでもあんの?」

「はい」

「そりゃ暇だから遊びに誘ってるんだし、あたしは構わないわよ」

「なら遊びます。どこで遊びますか」

「自分で誘っといてなんだけど、いいの? 光子ちゃんを迎えに行かなくて」

「大丈夫です。今日は光一さんがお休みなので光子はうちにいます」

「そう。悪いわね、付き合わせちゃって」

こうして、誕生日の夜を孤独に過ごすのだけは避けられた。

***

夕方。

仕事を早めに切り上げたあたしたちは、楽市通りを抜けて駅前広場に辿り着く。

「うん、今日も出てるわ」

広場の片隅に屋台が出ていた。

いつも夕方になる頃から日が変わるくらいまでの時間にやっているおでんの屋台。味も雰囲気もあたしのお気に入りだ。

「風子、ああいうお店で食べたことないので緊張します……」

「大丈夫大丈夫」

尻込みする風子を引っ張って屋台に連れていく。

「おっちゃーん! いつものやつー!」

「あいよっ!」

のれんを押しのけて注文する。

まだ夕方という早い時間だからか、今日はほかに客がいないようだ。

「何やってんのよ風子、そんなとこ突っ立ってないで、ここ座んなさいな」

「あ、はい」

風子に席を勧めると、可愛らしくちょこんと椅子に座る。

どうやら本当にこういう店は初めてらしい。きょろきょろと屋台を見回して挙動不審だった。

「そっちのべっぴんさんは何にするね?」

「なによぉ、それじゃあたしがべっぴんじゃないみたいじゃないのっ」

「ははっ、もちろん杏ちゃんもべっぴんさんさぁ! 両手に花で俺っちも嬉しいねぇ」

「そーお?」

軽く会話を弾ませて、風子の緊張をほぐす。

「それで、風子は何にする?」

「……いつものやつでお願いします」

「へっ?」

風子の変な切り返しに、おっちゃんが固まった。

「あんた、ここ初めてなんでしょーが!」

「そうでした。間違えました」

「あんたはいつも間違えすぎだから……」

どうやらまだ緊張が解けていないようだった。

「んーっ、おいしいですっ!」

「でしょ? 味も染みてて、お酒が進むのよねぇ……おっちゃんもう一杯!」

「あいよっ!」

相変わらず幸せそうに食べている風子の前に、グラスを持っていってみる。

「風子も飲む?」

「風子、お酒は飲めないです」

「だと思った。あんた、子供舌っぽいもんね」

「そんなことないです。風子、自分で言うのもなんですけど大人舌です」

「大人舌……って、何よそれ」

「キスする時――あ、いえ……なんでもないです」

「……あー」

言いかけた言葉でなんとなく想像がついたので、さっきみたいにノロケを聞いて無駄にダメージを食らうのはやめておいた。

「毎度あり! また来てくれよっ!」

一通り食べて、飲んで、屋台を後にする。

やっぱりひとりより誰かと一緒のほうが食事も楽しかった。

「あー、食った食った。お腹いっぱい!」

「それは困ります」

「なんでよ?」

「何事も腹八分目と言います。この後、急な食べ物が出てきた時に備えなくてはなりません」

「そんな事態、滅多にないから安心しなさい」

また変なことを言い出す風子だったが、お酒も入って気分が高揚している今のあたしにとっては、この子とのアホなやり取りも心地良いものだった。

「さて……次はあんたに付き合うわよ。どこに連れてってくれるの?」

「ではいきましょう。風子についてきてください」

相変わらずのハイペースで風子が歩き出す。

それを追ううちに夕日は地平線に消えていき、夜のとばりが下り始める。

秋の始まりを告げるような涼しい夜風が、火照った体に気持ち良かった。

「……あれ? こっちは……」

そこは見慣れた道だった。

迷いなく進んでいく風子の後ろ姿を追って曲がり角を曲がると、すぐそばに見える一軒家。

それは、椋の家――柊家だった。

「ちょっと風子、なんであんたが椋の家知って――」

そう言いかけたところで、柊家の玄関前で立ち止まっていた風子が振り返り……

ぱーーーーんっ!

すごい音を鳴らした。

「あんた……いきなり何やってんの?」

「いえ……」

隣接している家が周囲にないとはいえ明らかに近所迷惑なクラッカーの音を聞いて、柊家の扉が勢いよく開け放たれる。

そこに現れたのは、意外にも汐ちゃんだった。

「もうっ、ダメじゃないふぅちゃん、フライングだよっ」

「すみません汐ちゃん。わかってはいたんですけど我慢できませんでした……」

状況が飲み込めずにぽかんとしていると、汐ちゃんがあたしの手を取る。

「先生、早く早くっ」

「えっ? どういうこと?」

汐ちゃんに手を引かれ、あたしは柊家の扉をくぐる。

その先には……

「ハッピーバースデイ!」

一斉にクラッカーが鳴らされる。

呆然としているあたしの頭上に紙テープが降り注いだ。

柊家のリビングには、椋、勝平さん、俊平、梢はもちろん、渚と朋也まで集まっていた。

「誕生日おめでとう! 杏先生」

ぱーーーーんっ!

最後に、あたしの手を引いていた汐ちゃんが祝砲をあげた。

そしてあたしをここに連れてきた張本人もリビングに現れる。

「風子、あんた知ってたわね……」

「ひゅーひょろろー」

「口笛!? 古っ!」

「口笛じゃありません。トンビです」

「どっちでもいいわっ。ごまかしちゃってこのこのー!」

感極まって思わず風子を抱きしめる。

「もうっ、みんなありがとっ! 嬉しくって涙出ちゃう!」

そのまま、この場にいる皆に礼を言った。

「誕生日おめでとう、お姉ちゃん」

「誕生日おめでとう、椋」

数年ぶりに、ふたりでそれぞれの誕生日を祝う。

テーブルに並べられたふたつのバースデイケーキ。昔はこうして、家族にふたりの誕生日を祝ってもらっていた。

そして今また、あたしは子供たちに――家族に誕生日を祝ってもらっている。これ以上の幸せはないだろう。

あたしと椋は息を合わせ、ケーキに立てられたロウソクの火を吹き消した。

「杏さん、椋さん、お誕生日おめでとうございますっ」

「ありがとうございます」

「ありがとっ、渚」

「(ピーーーーッ)歳の誕生日おめでとう!」

「朋也、あんたは相変わらず一言多いわねぇ」

たくさんの拍手の中、改めてケーキと向かい合う。

「さあ、ガンッガン食べるわよーっ!」

「さっきお腹いっぱいって言ってました」

「甘いもんは別腹よ!」

今日はあたしの(ピーーーーッ)歳の誕生日。

もう誕生日なんて忘れ去ってしまいたかったけど、今年はたくさんの家族に囲まれた忘れられない誕生日となった。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第11弾、杏アフターでした。同時公開の椋アフター直後のお話です。

以前書いたSSでもそうでしたが、杏はいつまでも美化された初恋のイメージを引きずって新しい恋を見つけられない不器用なタイプ、という認識でしたので、こんな未来になりました。(ピーーーーッ)歳独身。

そして、風子アフターで書いた杏と風子のコンビが再結成。ボケツッコミがはっきりしてるからか、意外と書いてて楽しいです。

同時公開の椋アフターとは繋がりつつも別のSSなんですが、両方読んでもらえたら嬉しい。