「急な話ですまない。ゴールデンウィークが明けてから一ヶ月の間、うちの学校に非常勤講師として来てもらいたいのだが……都合がつくだろうか?」

そんな話を持ちかけられたのは、私が自分の『音』を見つけたあの日から十年の月日が過ぎたある春の日のことだった。

遡ることちょっと前。

夕方、いつものように音楽教室を終えた私が楽器の手入れをしていると、坂上さんが久しぶりにうちを訪ねてきた。

坂上さんは高校時代の友人で、今は母校で教鞭を執っている。たまに話をする機会があれば、少し方向は違うけれど同じ『先生』としての経験を共に語り合っていた。

今日もそんな感じで仕事帰りに寄ったのだろうと居間に上がってもらったが、出した紅茶を一口すすった坂上さんが開口一番に告げたのがさっきの話だった。

私は少し考えてから(他の人から見ると『少し』じゃないらしいけど)、思った通りに答えた。

「うーん……さすがに一ヶ月は長いですね。音楽教室を休むわけにはいきませんし」

「いや、休む必要はないんだ」

「?」

首を傾げる私に対し、坂上さんはずいっと身を乗り出しながら言った。

「単刀直入に言おう。合唱部の臨時顧問をしてもらいたい」

CLANNAD 10years after ~仁科~

懐かしい言葉。

それは私にとってはじまりの場所……今の私の原点とも言うべき存在だった。

「合唱部……それって、私の……」

「そう、おまえが作った部だ。知っての通り、うちの学校は顧問が監督していない時の部活動は禁じられている」

「あ、うん。そうでしたね」

私自身、顧問の問題に直面したことがあるのでよく覚えている。

「合唱部にも顧問は無論いるのだが、先週から産休を取っていてな……その間の顧問の引き継ぎをしていなかったらしい。おめでたなのは大いに結構だが、随分前からわかっていたことだろうに……まったく無責任なことだ」

そう言って坂上さんは疲れたようなため息をついた。

なんだか最近の坂上さん、ため息ばかりついている気がする。今年は学年主任もしてるらしいし、生徒の数も私とは比較にならない。やっぱり大変なんだろうな。

「最悪私が合唱部の顧問をやってもいいのだが、さすがに三つの部を掛け持つのはな……」

「三つもですかっ? それだと部活の時間もかなり短くなってしまいますね」

「そうなんだ。現状で陸上部と演劇部……合唱部も見るとなると文化部がふたつになるからな。曜日や時間の調整にも無理が出てくる」

坂上さんが口にした懐かしい言葉に、さっき合唱部の名を聞いた時以上の衝撃を受ける。

「演劇部!? あるんですか、今っ」

「ああ、やはり気になるか。私たちにとっては印象深い部だしな。二年前に私が担任をしていたクラスの生徒たちが再建したんだ。縁があって顧問もすることになった。あの時は力になってやれなかったからな」

坂上さんの言う"あの時"というのは、私たちが高校三年だった頃のことだろう。

「それを言うなら私だって……」

「いや、渚にとって私より近くにいたおまえの存在はきっと支えになっていたはずだ」

「でも結果的に演劇部は廃部になってしまいました」

「あいつがひとりで頑張ることに意味があったんだ。結果じゃない」

坂上さんは紅茶を一口すすって、話を続ける。

「渚は私よりずっと意志が強いからな。悪く言えば頑固者だ。私が演劇部の援助をしようと申し出ても、やんわりと断られたよ」

「私もです。幸村先生から引き継いだ新任の先生に合唱部と演劇部を両方見てもらおうと思ってたんですけど……断られてしまいました」

「ふたり揃って過保護な親みたいだな」

「ですね」

ふたり顔を見合わせて笑い合う。

高校時代からのふたり共通の友人、岡崎渚さんは、そんな放っておけない魅力を持った人だ。坂上さんと出会ったのも渚さんがきっかけで、その頃の話になると自然に会話が弾んだ。

「話を戻すが、どうだろうか? 合唱部の顧問」

「はい。今の合唱部に興味もありますし、私でよければ」

「そうか! 助かった、礼を言う」

坂上さんは律儀に頭を下げると、カップを傾けて一気に紅茶を飲み干す。

「ごちそうさま」

『もう一杯いかがですか?』と勧める間もなく、坂上さんはすっと立ち上がった。

「もう少しゆっくり話をしていきたいのだが、あいにくと今日は時間がないんだ。実はまだ仕事が残っていてな。もう一度学校に戻らなければならない」

「そうですか、残念です。……あ、よかったら学校まで車で送りましょうか?」

私の提案に、坂上さんがぴたりと動きを止めた。

「……いや、遠慮しておこう。おまえはハンドルを持つと人が変わるからな」

「そんなことないと思うけどなぁ」

昔、ヴァイオリンを弾いていた頃も、同じようなことを言われたことがある。私はヴァイオリンを持つと人が変わるらしい。それはただ単にヴァイオリンに集中しているだけであって、人が変わるほどじゃないと思う。

やっぱり普段から『のんびり屋』なんて言われているからかな。運転に集中しているだけで、別に違反するほどスピード出してるわけじゃないんだけど。

「では来週、旧校舎の二階まで来てくれ。部室はそこだ」

「あ、はい。わかりました」

「よろしく頼む」

こうして私は、かつて自分が設立した部の臨時顧問として、この町にある母校へと赴くことになった。

***

そしてゴールデンウィーク明けの日。

夕方前に音楽教室を終えた私は、よそ行きの服(すーちゃんに「中学校の新入生みたい」とか失礼なことを言われた服)を久しぶりに着て、懐かしの我が母校へと向かった。

高校三年間通い続け、慣れ親しんだ通学路。見慣れた道のりを辿っていると、その中に見たことのない場所や風景がいくつもあることに気づく。

あれから十年。ここを歩いたのは実に八年ぶりになる。長い年月の間に変わってしまった景色を目にするたび、なんだか寂しい気持ちになる。

感傷に浸っているうちに、見慣れた坂道が見えてきた。

学校へと続く並木道。桜がもう散ってしまっていたのは残念だけど、変わらない景色がそこにはあった。

あの頃に戻っていくように、変わらない景色の中をゆっくりと登っていく。その終わりにあるのは、懐かしい母校の姿だった。

その風景の中に小さな違和感があったが、私は特に気に留めることもなく旧校舎へと向かった。

旧校舎の二階。坂上さんに言われた場所に来てみたはいいが、そこに合唱部の部室らしき教室はなかった。周囲に生徒の姿も見えない。

「?」

目の前の教室を見ながら首を傾げる。そのプレートには『2-C』と書かれていた。

そういえば私も高校二年の時、C組だったような気がする。私が合唱部を作った年のことだ。

「おかしいなぁ」

いくら普段からぼんやりしてるとか言われる私でも、さすがに二年近く通い続けた部室を間違えたりしない……と、思うんだけど。

疑問に思いながらも、目の前のドアを恐る恐る開く。

中には……ひとりの女の子。窓際の席に女生徒が座っていた。何か書いているのか、背を丸めて机に向かっている。

「こんにちは~」

とりあえず声をかけてみる。

よほど集中しているのか、女の子は机に向かったままで私には気づいていない様子だった。

何をそんなに熱中して書いているのか気になって近寄ってみる。

席の後ろから覗き込むと、それは私にとって見覚えのあるもの……楽譜だった。

「……」

五線譜にひとつひとつ音符を打っていく。打ち方がなんだか少しぎこちない。楽譜を書くことに慣れていないようだ。

その未完成な譜面を読んでみると、それは私にも馴染み深い曲のようだった。

頭の中でメロディを流しながら譜面を辿るうちに、頭の中で不協和音が鳴った。

「……あ、半音ずれてる」

思わずそのままの言葉を口にする。

「えっ? どこどこ?」

驚かれることもなく聞き返された。私は譜面の不協和音が鳴った部分を指差す。

「ここ」

「あ、ほんとだっ。ありがとう」

振り返ったその女の子と目が合う。

綺麗に切り揃えられた長い黒髪に、おっとりとした顔立ち。おとなしそうに見えるけど、その目には強い意志が感じられた。

ニコッと微笑みかけてみる。

向こうも私に釣られてか、同じように微笑んでみせた。

「……」

傾きかけた日の光が窓から差し込んでうっすらとオレンジ色に染まった放課後の教室。その中でふたり無言で微笑み合っている。おかしな光景だった。

「……わっ! 誰!?」

女の子がようやく驚きの声をあげた。とても遅い反応だ。

「もしかしてあなた、合唱部の子?」

「えっ? はい、そうですけど……あっ! もしかして、坂上先生が今日来るって言ってた、新しい顧問の先生ですかっ?」

「ぴんぽーん♪」

いつも教室で子供たちを相手にしている時のように、人差し指を立てて口で正解音を鳴らしてみせた。

「やった! これでやっと部活ができるっ!」

女の子は文字通り飛び跳ねて喜んでいた。ここまでストレートに喜んでもらえると、顧問を引き受けた甲斐があったというものだ。

「やっぱり、ここが合唱部の部室だったんだね。『2-C』なんて書いてたからびっくりしちゃった」

「えっ? ここは2-Cですけど」

「……え?」

意外な返答に、思わずもう一度訊き返してしまう。

「合唱部の部室は旧校舎です」

「ここ、旧校舎……だよね?」

「いえ、ここは新校舎。旧校舎はあっちです」

同意を求める私をあっさり否定した女の子は、教室の入り口のほうを指差す。

そこで私は思い出した。私たちが卒業した次の年、旧校舎は取り壊されてそこに新しい校舎が建てられたことを。

最初に感じた違和感の正体はこれだったのか。道理で校舎が昔の記憶よりも綺麗になってるような気がすると思った。

「あ、あはは……」

恥ずかしさを紛らわすために笑ってごまかすも、耳たぶが熱くなっていくのが感じられる。ああぁ、初日からこんな失敗をやらかすなんて恥ずかしいぃ~。

それにしても、私の時の新校舎が今は旧校舎か……なんだか混乱するなぁ。

「もしかして先生、迷ってたんですか?」

「迷ったというか間違えた、かな? 私がこの学校に通ってた頃はこっちが旧校舎だったから」

「本当ですか!?」

ものすごい勢いで食いついてくる。おとなしそうに見えたけど、思ったよりもずっと元気な子だ。

「うん、私たちが卒業した次の年に建て直したみたい」

「そっちじゃなくって……先生、この学校に通ってたんですかっ?」

「え? うん」

「もしかして合唱部だったんですかっ」

「うん、まぁ」

というか創立者だけど。

「すごいすごい! 合唱部OGの人に顧問してもらえるなんて嬉しいなぁ」

またまた目を輝かせて喜んでいる。

「ありがとう。自己紹介はみんなが揃ってからさせてもらうから、とりあえず部室まで連れていってくれるかな」

「はいっ、喜んで!」

こうして私は合唱部員の女の子に連れられて、私たちの頃は新校舎だった旧校舎(ややこしい)へと向かった。

「いやぁ~、先生が来てくれて助かりました。もうすぐ創立者祭なのに練習できなくって困ってたんです」

「そっか……文化部にとっては晴れ舞台だもんね」

部室へ向かう間も、女の子の口が止まることはなかった。強い意志を感じさせるその目を輝かせながら、話を続ける。

「だいたいおかしいですよね。顧問の先生が見てない時は部活しちゃダメだなんて」

「あはは……。でも昔からそうだったからね」

「先生の時もそうだったんですか?」

「うん」

「合唱なんだから声を合わせる練習をしないといけないじゃないですかっ。でも部活はできないし……とりあえずみんなでカラオケ行って練習してたんですけど」

急に話が変わった。

「私、歌うの好きだけど楽譜とか読むのも書くのも苦手で……ああぁーーっ! もうっ、どう言ったらいいのか、えーっと……」

すごく舞い上がっているみたいだったが、この子が何を言いたいのか、私には伝わった。私は笑顔で、こう問いかける。

「合唱、楽しい?」

「はいっ!」

女の子は満面の笑顔で大きく頷く。

その笑顔は、私にとって何よりも嬉しいもの。これからの一ヶ月が楽しみだった。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第2弾、にしなふたーでした。2○歳のりえちゃんを想像してみました。他のキャラも大抵そうなんだけど、10年経っても基本的にはそんなに変わってない気がする。

りえちゃんの未来についてはこれまでに書いてきたSSや今作通り、『自宅で音楽教室を開いている』と想像しています。ありがちだけど。

智代は今作に登場したことで未来がバレバレ――というかそれ以前にCLANNATSUでバレバレだったんですが、今シリーズはこれまでに書いたトゥルーエンドアフター系SSと基本的に設定がリンクしてます。

今回登場した合唱部員ですが、本編で存在が示唆されている人物にしようかどうか決めかねた結果、名前を出さないことにしました。もしかしたら他の10years afterで再登場するかも。