はじまりの三重唱

音楽が好き。

ヴァイオリンが大好き。

でも、週に一度のヴァイオリンのレッスンだけは大嫌いだった。

父は有名な音楽家。母方の祖父は指揮者、祖母はピアニスト。

そんな環境で暮らしていれば、音楽が好きになるのは必然に思えた。

でも幼い頃の私は、自分の境遇が特別だなんて思いもしなかった。

だってそれが私の『日常』だったから。

いつヴァイオリンを手に取ったのか、そして音を奏でたのか。実を言うとあまり覚えていない。物心ついた時にはヴァイオリンを弾いていた。

私にとってヴァイオリンは遊び道具であり、本来の楽器でもあり、私自身を表現する大事なものだった。

何も知らなかった無垢な頃。

ただ、純粋にヴァイオリンが好きだった。

父が、母が、周りのみんなが喜ぶ顔を見たくてヴァイオリンを弾いていた。

私にとっての『日常』が他の人とは違うということに気づかされたのが、小学生になってから通い出したヴァイオリン教室だった。

もし、そこで出会ったのが幸村先生のような人だったら、私は自分が『普通』ではないことに気づかなかったかもしれない。

……いや、遅かれ早かれ、いつかは気づかされただろう。過去の事実について仮定の話を持ち出しても詮無いことだ。

ともかく、ヴァイオリン教室の先生は著名な音楽家の娘である私を『特別』扱いした。それだけは紛れもない事実だった。

独学でヴァイオリンを弾くことの難しさは今になってみればわかる。ちゃんとした教室に通ってレッスンを受けるのは悪いことではない。

それでも、初めて他の子たちと一緒に演奏できるのを楽しみにしていた私は、個人レッスンと称して私だけ隔離されるのが嫌で嫌で仕方なかった。

結果、私の周りには誰もいなくなっていた。気がついたら、ひとりだった。

心を許せるのは、ヴァイオリンだけだった。

その頃から、私にとってヴァイオリンは遊び道具でも楽器でもなく、私自身と言っていいほど大切な存在へと変わっていった。

周囲に目を向けることもなくなり、目に見えない高みを目指してひたすら練習に打ち込んでいた。

孤独を代償に、私のヴァイオリニストとしての腕は上達していった。

そして、自分でも気づかないうちに、これまで遊びの延長だったみんなが喜ぶ顔を見るための演奏は、技術を習得し錬成するための演奏へと変えられていった。

そんなある日、ヴァイオリン教室でひとつの出会いがあった。

他の子にとっては『普通』の出会い。でも、私にとっては『特別』だった。

大人の言うことをぜんぜん訊かないヘソ曲がりの問題児。これまでも幾多の習い事を転々としてきたが、長続きした試しがない。

個人レッスンの最中だった私のところまで勝手に入ってきたその女の子は、なぜか不機嫌そうな顔で自分のことを指してそう言った。短い間だけどよろしく、と手を差し出しながら。

この教室で初めての、心を許して話せる子……『友達』と呼べる存在だった。

その子は最初の頃、ずっと怒ったような顔を私に向けていた。

孤独に慣れてしまっていた私は、それが教室での特別扱いのせいだと思っていた。

でも違った。その子は……杉坂さんは、他の子とは違った。

私のヴァイオリンがなくなったあの日。

取り乱す私を見て、杉坂さんは泣いた。

泣きながら……ごめんねと何度も謝りながら、隠していた私のヴァイオリンを返してくれた。

先生に叱られながら、ぽつぽつと話し出す理由を聞いて、私は理解した。

この子は、私と同じ気持ちだったのだ。

一緒にヴァイオリンを弾きたかっただけ。

私はその時、初めて本当の気持ちを先生にぶつけた。顔を歪めた先生の言うことも聞かず、みんなと一緒に……杉坂さんと一緒にヴァイオリンを弾いた。

その時の杉坂さんの笑顔は、忘れかけていたヴァイオリンが好きという純粋な気持ちを、みんなが喜ぶ顔を見るための演奏を、私に思い出させてくれた。

実際、杉坂さん――その頃にはもうすーちゃんと呼んでいた――は一月も経たずにヴァイオリン教室をやめてしまった。当人にとっては一番長く続いた習い事だったみたいだけど。

その短い間に、私はすーちゃんにとっての『日常』をいっぱい教わった。どれも私の日常とは大きく異なるものだった。

ヴァイオリンくらいしか遊び道具を知らなかった私に、いろんな遊びを教えてくれた。

お互いの家へも遊びに行った。すーちゃんの家は、おもちゃが山のようにある夢のような家だった。

すーちゃんが教室をやめてしまってからも、私たちはよく一緒に遊んでいた。

相変わらずレッスンは嫌いだったけど、ヴァイオリンを弾くこと自体は変わらず好きだったし、すーちゃんの前で弾くのは特に好きだった。何か新しい曲を弾けるようになるたびに何度も聴いてもらった。

同じ中学に通うようになって、同じクラスになってからは、何をするにもふたり一緒だった。

練習が苦しくても、すーちゃんの前では笑顔でいられた。

すーちゃんの前でヴァイオリンを弾いていると、あの頃の気持ちを思い出すことができた。ヴァイオリンが、音楽が好きという純粋な気持ちを持ち続けることができた。

技術的にも練習を重ね、私自身を表現する『音』を探した。

目に見えない高みを目指すよりも、もっと身近なものを目標にしたかった。

これまで幾万としてきた演奏も私自身が奏でる『音』ではあったけど、音というパーツはそれこそ無限にある。自分自身を深く感じられる『音』を探そうと思った。

すーちゃんには周囲に無頓着とまで言われる私でも、その頃になると周りの大人たちがヴァイオリニストとしての私に期待しているのが理解できた。

過度の期待は重荷となって、当人を押しつぶしてしまう。

一度変わりかけていた頃の私だったら、期待に押しつぶされていたかもしれない。でも私は平気だった。

ヴァイオリンが好きだから。

すーちゃんや周りのみんなの笑顔と、私自身の『音』を見つけるためにヴァイオリンを弾いていたから。

道はまっすぐに続いていた。

その道を、私はまっすぐに歩いていた。

迷うこともなく、振り返ることもなく、まっすぐに。

これからもずっと、ヴァイオリンを弾き続けていくんだと信じていた。

その時は、そう信じていた……。

明日へのハーモニー ~Soprano Part~

この学校は嫌い。

本当は通うはずのなかった学校だから。

この町は大嫌い。

夢が永遠に夢でしかなくなった場所だから。

すべてを失ったあの日から……

目を閉じ、耳を塞ぎ、絶望に押し流されて。

何もなかった。

ただ、生きていた。

私の時間は、止まっていた。

それでも、私以外の時間が止まることはない。

やがて今日は昨日になり、明日は今日になる。時の流れは決して止まることなく、明日へ向けて進んでいく。

時の流れはやがて大きなうねりとなって、立ち止まっていた私を押し流す。

まるで渚に打ち上げてきた大きな波にさらわれるように、私は否応なく前に進まされた。

ただ明日へ向けて歩くことがこんなにもつらいとは思わなかった。

一歩、また一歩。

時間に押されて歩くたびに、身体中が軋みをあげるようだった。

その痛みに耐えられなくなった私は、届かなくなった夢を心の奥底に閉じ込めて何重にも鍵をかけた。

ヴァイオリンとか、音楽とか。

忘れてしまえば、心が痛くなかった。

音に溢れていた私の部屋は、何もない殺風景な部屋へと変わった。

そうやって目を逸らし、どんなに心の平穏を保とうとしても、私に現実を突きつけてくるものがあった。

力の入らない左手。

私の身体の一部であって、私の身体ではないような壊れた感覚。

左手で物に触れるたびに、あの日の出来事が現実であることを改めて鮮明に思い知らされる。

もし、この左手が誰かに直接傷つけられたものだったら、その人に怒りをぶつけることで……その人のせいにすることで、心の平穏を保てたかもしれない。

けど実際はそんな衝動をぶつける対象もなく、ただただ過去を悔やむだけだった。

左手を意識するたびに歩みを止めて、過去を振り返る。

何度も何度も、あの日の「if」を繰り返してしまう。

もし、あの瞬間、数歩だけでも前に踏み出していたら。

もし、あの瞬間、地鳴りのように響いてくる轟音にもっと早く気づいていたら。

もし、あの時、曲がり角が工事中じゃなかったら。

もし、あの時、駅前の横断歩道を渡っていなかったら。

もし、あの時、いつもの遊歩道を通っていなかったら。

もし、あの日、五分早く家を出ていれば。

もし、あの日、五分遅く家を出ていれば。

もし、あの日、レッスンに出なければ。

もし、あの日、外に出ていかなければ。

もし…………

現実を認めたくなかった。

認めてしまったら、すべて崩れ落ちていく気がした。

私は「if」という偽りを重ねて、現実を書き換えていく。

ヴァイオリンなんて知らない。

音楽なんて聞かない。

この左手は生まれつき握力が弱かったんだ、と。

そんな偽りと現実の狭間で、私の心を落ち着かせてくれる唯一の存在、それがすーちゃんだった。

不思議だった。

ヴァイオリンを弾いていた頃の私と、最も近しい存在なのに。

忘れたい現実を真っ先に思い起こさせる存在なのに。

すーちゃんの前でだけは、以前と変わらない私でいられた。

すーちゃんと一緒にいる間だけは、現実を受け入れることができた。

すーちゃんがそばにいてくれたから、私は崩れ落ちずに済んだ。

大きな支えだった。

あるいは、それは甘えだったのかもしれない。

立ち止まることを世界が許してくれないから、親友の背に負ぶさっていたのかもしれない。

時間という波に押し流されていたとしても、すーちゃんの背に負ぶさっていたとしても……どちらにしても私は自分の足で歩いてはいなかった。

ただ流されるままに生きていた。

明日が今日に、今日が昨日になるのを延々と見送っていただけだった。

何もしていなくても、時間だけは過ぎ去っていく。

そして過ぎ去った時間は、二度と帰ってこない。

何もない毎日を、ただ見送り続けていた。

***

この学校は嫌いだった。

この町は大嫌いだった。

でも、これからは好きになれるかもしれない。

明けない夜はない。やがて日は昇り、朝が来る。

ずっと続く冬もない。やがて緑は芽吹き、花咲く春が訪れる。

学校へと伸びる長い、長い坂道。

校門まで絶え間なく続く満開の桜並木を見上げる。

春は一年のはじまり。

私はこの学校で二度目の春を迎えていた。

去年の春のことはあまり覚えていない。

この学校に入学してからの一年間。そのほとんどを私は音のない世界で過ごした。

大好きな音楽をずっと抑えつけて、見ないように聞かないようにしてきた。

……あの歌声を聞くまでは。

幸村先生の歌声は、私にとって久しぶりに聞く『音』だった。

その音は、頑なに音楽を拒んでいた私の心にも届いた。

気がつくと私も歌い始めていた。抑えつけていた大好きなものが心から溢れるように。

一筋の光が、見えた。

消えてしまったと思った夢は、今もまだ手の届く場所にあった。

私は目の前の光に向けて、懸命に手を伸ばす。

揺らめく光を、両手でそっと包み込んだ。

――楽器が弾けなくても、音楽はできる。

私は、探し求めていた私自身の『音』を見つけた。

長い坂道。その先に目を向ける。

今日から、もう一度登り始めよう。

明日へ向けて、この長い、長い坂道を。

木漏れ日が溢れる坂道を、私はゆっくりと登った。

失った時間を取り戻すように、一歩一歩踏みしめながら。

何もない殺風景な部屋。

私は勇気を持って、その場所に立っていた。

一年以上前からずっと時間が止まっていた場所。そこは同じ部屋の中でありながら、まるで別世界のように異質だった。

長い、長い月日を経て、目を背けていた過去の象徴と向かい合う。

押し入れの奥底に放置された擦り傷だらけのヴァイオリンケース。

埃を払い、そっと身に抱く。

そうしていると、遠い日の懐かしい音が聞こえてくるようだった。

無垢だったあの頃。周りのみんなの笑顔を見たくてヴァイオリンを弾いていた。

夢を見つけたあの頃。音楽が好きという気持ちと、それを伝えたい思い……すーちゃんと、私自身の『音』を見つけるためにヴァイオリンを弾いていた。

目を閉じれば、帰れる気がした。

でもそれは過去の夢。これからは未来へ向けて自分の足で進まなければならない。

還らざる時の終わりに、私はその一歩を踏み出した。

ケースを開き、その中にある現実を見据える。

色褪せたヴァイオリン。

このヴァイオリンは私のすべてであり、私自身だった。

そして今も、この子は私と同じ存在。大きな傷を負って、もう以前のような音を奏でることはできない。

もし、運命を捻じ曲げられたあの日、あの時、あの瞬間……持っていたこの子を放り出していたら、未来は変わったのだろうか。

これまで幾度となく繰り返してきた「if」の話。

……もう現実を偽るのは終わりにしよう。

私はうつむいていた顔を上げて、前に……未来に目を向けた。

ゆっくりと弓を構える。

これは儀式だった。過去を乗り越えて、その先に進むための。

深く息を吸う。

今までの私に別れを告げるように、大きく息を吐きながら弓を引いた。

私の中で止まっていた時間が……再び動き出した。

息をついて、弓を下ろす。

そして、たったひとりの観客に向けて深く頭を下げた。

友達になってくれてありがとう。

すべてを失い、崩れ落ちていく私を支えてくれてありがとう。

嬉しい時も、悲しい時も、ずっとそばにいてくれてありがとう。

伝えられなかったすべての思いをこめて。

ぱちぱちぱちと拍手が聞こえてくる。それは今までコンクールで受けたどんな喝采よりも、私を勇気づけてくれるものだった。

歩き出そう。

まっすぐに続いていた道はもう見えないけれど。

迷うこともあるし、振り返ることもあるけれど。

未来に向けて、前に進もう。

***

やがて今日は昨日になり、明日は今日になる。時の流れは決して止まることなく、明日へ向けて進んでいく。

ずっと続いていく明日への道。

私はその道を歩いていく。今は自分の足で。

もう身体中が軋みをあげることもない。

だって、もうここは音のない世界じゃないから。

世界はこんなにも、『音』に満ち溢れているから。

本当は一年前に去っていくはずだったこの町。

大嫌いだったこの町。

今はちょっとだけ好きなこの町で……

私は歌を歌う。

幸村先生の歌のように、心に届く歌を歌いたい。

私の心から溢れる音楽が好きって気持ちを、あの時見えた一筋の光を、私自身の『音』を、たくさんの人に伝えたい。

そんな思いをのせて。

ずっとずっと歌っていよう。

今日という思い出と共に、明日という未来へ向けて。

そして今日も、私は歌うように声をかける。

伝えたい思いを言葉にのせて。

「合唱部に入りませんか?」

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

いよいよ真打ち登場! 合唱部部長、仁科りえの章でした。

これまでのSSでは軽く触れた程度で明確にしていなかったりえちゃんの過去を一挙大放出。おかげでかなり重い話になってしまいました。

「町や場所」、「時の流れと変わりゆくもの」、「人との繋がり」といったところに気を配って、本編では触れられない『仁科りえ』という存在を細部まで想像してみました。紛れもなく私的仁科りえではありますが、CLANNADキャラクターとしての仁科りえを感じてもらえたら嬉しいです。

毎度のことながらうまく文章にできない部分も多々あって難しかったですが、杉坂や原田の話と合わせて合唱部ビフォアーストーリーとして楽しんでもらえれば幸いです。