はじまりの三重唱

「合唱部に入りませんか?」

その子は唐突にそう言った。

「……は?」

あまりにも突拍子のない言葉に、間の抜けた返事をしてしまう。

「ですから、合唱部に入りませんか?」

「ごめん、もう一回」

「合唱部にっ、入りませんかっ」

「がっしょう?」

手のひらを合わせる。

「字が違います」

「それじゃあ……」

床を指差す。

「ここ」

「それは学校です」

「んー、じゃあ……」

西日が差し込む窓に背を向けて立ち、両手を大きく広げてみせる。

「この夕日の向こう側にはね、誰も知らない異世界が……」

「それは逆光……」

「じゃあ……」

もう一度席につき、窓の外に見える満開の桜に目をやる。

「スギはピークを過ぎたけど、そろそろヒノキがピークなんだって」

「それは花粉症」

「じゃあ、聖徳太子」

「摂政……」

「おみこし担いで」

「わっしょい」

「呼ばれて飛び出て」

「ハクション」

「激しい感情!」

Passion!

ハイスピードな攻防に、ふたりして息を切らせる。

「……いい加減やめない?」

「それはこちらのセリフです……」

夕映えのメロディ ~Alto Part~

「んで……なんだっけ?」

「合唱です」

「がっしょう……」

「手のひらを合わせないでください……」

その子……仁科りえは、呆れた表情でため息をつく。

わたしの知っている同じクラスだった頃の仁科とは違う印象を受けた。

いや、表面上は以前とあまり変わらないように見える。だとしたら内面的なものだろうか。

そういえば……1年の頃からの付き合いだが、仁科のほうから話しかけてきたのは初めてかもしれない。

「でもさ、合唱部なんてうちの学校にあったっけ?」

「いえ、ありませんでした。だから作ろうと思うんです」

「へっ? 誰が?」

「私です」

「どうして?」

「好きだからです。楽しいと思います、みんなで一緒に歌うのって」

「いつ?」

「昨日思いつきました」

「誰が?」

「私です」

「どうして?」

「歌を聴いたからです」

「いつ?」

「先週です」

「誰が?」

「……真面目に聞いてませんね……原田さん」

仁科の冷たい眼差しがわたしを射抜く。

「い、いやぁ……あまりにもノリがいいから、なんか止まらなくなっちゃって……」

笑ってごまかすと、姿勢を正して仁科と向き合う。

「もしかして、わたしを合唱部に勧誘してるの?」

「はい。原田さん、選択教科も私と同じ音楽ですし、歌もうまいです。よく通る声でうらやましいです」

「歌がうまい、か……。確かにカラオケは結構行くけど、よく通る声とか言われたのは初めてだな」

「カラオケですか。私、行ったことないです」

「……え?」

どこの箱入り娘さんですか、あなたは。

目の前にある端正な顔をしげしげと見つめる。

視線に気づいた仁科が不思議そうに小首を傾げると、流れるような長い髪がふわりと揺れた。

うーん、確かに保護欲をかきたてられるかも。悔しいけど可愛いわ。

「どうかしました?」

「へ? ああ……なんでもないよ」

「それで……昨日先生にいろいろと相談してみたんですけど、正式な部を設立するためには部員があとふたり必要なんだそうです」

「ちょっと待った!」

マイペースに話を続ける仁科を手で制する。

「はい?」

「あのさ……」

「はい」

「わたし、もう部活入ってるんだけど」

「えっ、そうなんですか?」

思い返せば、仁科と部活の話をしたことは一度もなかった。仁科はいつも放課後になるとすぐに帰っていたし、体育の授業は見学していることが多かった。

自分の早とちりに気づいた仁科は、申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんなさい、邪魔してしまって……。急がないと、もう部活始まってると思います」

「……まぁ、急いで行っても仕方ないんだけどね……」

「えっ?」

鞄を手に取ると、重い腰を上げて席を立つ。

「じゃあまたね」

不思議そうな顔をしている仁科を残して、教室を出た。

更衣室でのろのろと服を着替えると、人通りの少なくなった廊下を歩いて体育館へ向かう。

館内はすでに熱気が立ちこめていた。

半分はバスケ部。ネットで仕切られた反対側はバレー部が使用している。

練習に励むバスケ部を横目で見ながら、ネットの向こう側に足を踏み入れる。

「原田さん! 遅刻よっ」

「いやぁ、着替えるのに手間取っちゃって」

さっそく飛んできた部長の怒号を適当に受け流しつつ、コートの隅へと移動する。

わたしが来たことに気づいて手を止めていた部員たちも、やがておのおの練習に戻っていく。

みんなが懸命に練習する姿を、わたしは壁にもたれてぼーっと眺めていた。

なんだろう、このもやもやした感覚は。

ジャージの袖をまくって、左手首に巻かれた包帯を見つめる。

……全治三週間。

自分のミスが招いた怪我とはいえ、ショックではあった。

幸い交流試合には十分間に合う時期だし、しばらくの間左手が使えないだけだ。手が治るまで身体がなまらないように運動はするべきだろう。

でも、なぜか気力が湧いてこない。

別にバレーボールが嫌になったわけではない。むしろ今すぐにでもやりたいとは思う。

そうは思っていても、心にぽっかりと穴が開いてしまったようで何をするにも億劫なのだ。

これまでバレーと共にあった毎日が急になくなったことで、気が抜けてしまったのだろうか。それとも……

…………。

次第に自己分析を進めるのも面倒になってしまい、思考停止に陥る。

無為な一日はこうして過ぎていった。

***

翌日の放課後。

「合唱部に入らない?」

そいつは唐突にそう言った。

「……は?」

あまりにも突拍子のない言葉に、間の抜けた返事をしてしまう。

「だーかーらぁっ、合唱部に入らない?」

「ごめん、もう一回」

「合唱部に入れっ!」

「がっしょう……」

手のひらを合わせる。

「字が違うっ! 真面目に聞け!」

強烈な裏手チョップをビシッと決められる。

うーむ、これがデジャヴというやつか。

「んで……なんだっけ?」

「あのねぇ……合唱部に入れっつったの!」

「ああ、そうだったね。けど杉坂、あんた音楽部でしょ。なんで合唱部の勧誘してんの」

「うん? ああ……私、今日から合唱部だから」

「はあっ!?」

軽くとんでもないこと言ったぞ、こいつ。

「それって、音楽部を退部したってこと?」

「まぁそうなるね」

こいつは何を考えてるんだ?

一瞬そう思ったが、昨日仁科から聞いた話を思い出して合点がいく。

きっと仁科のために音楽部をやめたのだろう。こいつはそういう奴だった。

仁科にとっては寝耳に水だったろう。

杉坂の突飛な行動は今に始まったことではないにしろ、今回はいつも以上だ。その驚きはだいたい想像がつく。

こりゃ、厄介なことになりそうだ。こめかみを指で押さえながら話を続ける。

「わたしがバレー部なの知ってるでしょ」

「今は休部中なんでしょ? 手伝ってよ」

「休部中でも、ちゃんと部に顔出さないと部長にどやされるんだよ……」

「よし、じゃあ退部しよう!」

「あのねぇ……」

名案とばかりに人差し指を立ててみせる。

話が飛躍しすぎだ。こいつは仁科のこととなると見境なくなるからな。

「部員が三人必要なんだよっ。名前だけでも貸してよ」

「仁科がそう言ったのか?」

「な!? なんでりえちゃんのこと……」

「昨日勧誘されたよ。仁科に」

「そっか……」

すっかり勢いのなくなった杉坂がうつむいてしまう。

「あの子、今はC組だっけ? しばらく見ないうちに、なんていうか……雰囲気変わったね」

「今のりえちゃんが、本当のりえちゃんだよ……」

「そうなのか? だったら……」

鞄を持って席を立ち、杉坂の肩を軽く叩く。

「よかったな」

顔を上げた杉坂の目が驚きに見開かれる。

少しの沈黙の後、いつものキツい顔立ちからは想像がつかないほどの澄んだ表情を浮かべた。

「……やっぱりあんたに合唱部に入ってほしいと思った」

「そりゃ光栄だ。そこまで言われたら手伝いくらいはしないとね」

ジャージが詰め込まれた重たい鞄をうんしょと肩に掛けて、杉坂に背を向ける。

「じゃ、わたしは部に顔出してくるから」

そう言い残して教室を出た。

***

それから何日か後。時の流れというものが無意味に感じていた頃、いつものように遅れて体育館へ向かう途中で仁科と出くわした。

「こんにちは。これから部活ですか」

「まぁそんなとこ。そっちは? 部員は集まった?」

「あ、はいっ。すー……じゃなくて杉坂さんが入部してくれたので、あとひとりです」

「そっか、よかったな。それは……?」

仁科が手に持っているホウキに目を移す。

「あ、これですか? 部室も空き教室を使わせてもらえることになったので、今日は部室の掃除を……」

「手伝おうか?」

「原田さんは部活があるじゃないですか」

「そりゃそうだけど……」

よく考えたら、左手が使えないわたしじゃ戦力にならないか……。

「お気持ちだけもらっておきますね」

「うん、またね」

仁科の後ろ姿を見送って、わたしも体育館へと向かう。気のせいか少し足取りが軽くなっていた。

……やっぱり気のせいだった。

体育館に着く頃には、すっかり足取りは重くなっていた。

「原田さん」

見慣れた練習風景をぼんやりと眺めていると、不意に声をかけられた。

コートから出てきた部長が、手に持ったボールをわたしの眼前に持ってくる。

「どう? ボールに触りたいと思わない?」

「うん、思わない」

「即答しないでちょうだい。でも重症ね、これは……」

ボールを脇に抱えると、顎に手を当てて、うーんと唸る。

「一週間もボールに触ることもできず見学するだけなんて……私だったら発狂するわ」

「そりゃ部長が変なだけですよ。自分にしか効かない治療法をわたしに試さないでください」

「相変わらず口の減らない子ね……。まぁいいわ」

部長は唐突にビシッとすごい効果音を立ててわたしを指差す。

「明日からは怪我が完治するまでの二週間、見学にも来ちゃダメよっ。そうすればあなたはきっと我慢できなくなるわっ!」

「相変わらず横暴だなぁ」

「悔しかったら来年はあなたが部長になんなさい」

「嫌ですよ、めんどくさい」

わたしの返事が予想通りだったからか、部長はふっと口を緩めた。

「たまには息抜きも必要よ。ずっとバレーだったんだから。この二週間、あなたの好きなことをすればいいわ。やりたいことがないのなら見つけなさい」

自分で言っておいて照れくさいのか、体ごと顔を横に背ける。

「それに……」

その横顔が曇る。

視線を追ってみると、ネットの向こう側でシュート練習をしているバスケ部が見えた。

「怪我が元で二度とプレイできなくなることだってあるのよ。そういう人から見たら、あなたの悩みは贅沢だわ」

部長が視線の先に本当は何を見ていたのか、わたしにはわからなかった。

***

翌日の放課後。部への立ち入りまで禁止されたわたしは、まっすぐ家へ帰りもせずに、校舎内を目的もなくただうろついていた。

「やりたいことを見つけろ、か……」

誰もいない廊下でひとりごちる。

やりたいことどころか、何もする気が起こらないのだ。部長の治療法は逆効果もいいところだ。

…………。

いつものように自己分析を進めるのも面倒になって思考停止に陥る直前、ガラッと大きな音がして近くの教室のドアが勢いよく開かれた。

急に現実へと引き戻されたわたしは、思わず音のした方向に目を向ける。

「帰る」

「ああ、待ってくださいっ」

開け放たれた出入り口から、ひとりの男子生徒が出てきた。それを引き止めるように、ひとりの女生徒が男子の制服の裾を掴んでいる。

男子は仕方ない……といったような表情を見せながらも、決して本当に嫌がっている様子はなく、部屋の中へと戻っていった。

『じゃ、なんでもいいから答えろ』

『はいっ……ええとですねっ……』

再び閉じられたドアの向こうから声が聞こえてくる。ここも何かの部なんだろうか。

『それはそれは楽しい劇ですっ』

仲良さそうに話を続ける男女の声を背に、わたしはのろのろとその場から立ち去った。

「帰るか……」

屋上へと続く階段の前まで来たところで呟く。

これ以上、こんなところをうろついていても何も見つからない。探す気がないのに見つかるはずがなかった。

ため息をついて踵を返し、校舎の外へと足を向けて歩き出した。

『……空……向こうへ……』

廊下をとぼとぼと歩いていると、静まり返った旧校舎内にかすかな音が聞こえてきた。

なんだろう。とても懐かしい感じがする。

耳に残る心地よいメロディに引き寄せられるように歩を進めるに連れ、音の断片が音色として……歌として聞こえてくる。それは聞き覚えのある歌声だった。

空き教室の並ぶ廊下を歩き続け、ひとつの教室の前で立ち止まる。歌声の主がいるであろうその部屋をドア越しに覗き込んだ。

「風さわぐ野で、つなぐ指先……」

そこには右手を胸に当て、目を閉じて唄を歌っている仁科の姿があった。夕日を背に受け、開かれた窓から吹く風に髪をなびかせている。

その美しい光景に目を奪われ、わたしは廊下に突っ立ったままでいた。

「どうかお願い、ほどけないでいて……」

やがて歌い終えた仁科が右手をゆっくりと下ろして目を開く。

「…………」

ばっちり目が合ってしまった!

無意識に握りしめていた手を後頭部に持っていきながら、ドアを開いて部屋の中に入る。

「原田さん……」

「ごめんごめん。覗くつもりはなかったんだけど……」

「いえ……。それよりどうしたんですか? こんな時間に」

「あ、ああ……今日は部活休みなんだっ。それで……まぁ、家に帰ってもすることないし……うろうろしてたわけ」

「そうだったんですか」

「そうだったんですよっ」

ぎこちないやり取りが続く。

仁科もそれを感じてか、話題を変えてきた。

「それで……どうでした? 私の歌」

「あ、うん。驚いたよ」

「え?」

「その小さい体のどこにそれだけの歌声を出す力があるのかな、ってさ」

「原田さんには言われたくないです……」

「あははっ、冗談だって」

確かにわたしも仁科のことは言えない。バレー部の中で一番背が低いのだから。

「聞き惚れちゃったよ。そもそも歌声に釣られてここまで来たんだから」

「釣られて、って……そんな遠くまで聞こえてたんですか」

…………。

ここに来るまでの経緯をかいつまんで説明すると、仁科は頬をちょっぴり赤く染めて、はにかむように微笑んだ。

「ちょっと恥ずかしいです」

「でも合唱部なんだから、いずれはみんなに聞いてもらわないといけないんだよ」

「それはそうですけど」

「前に音楽の授業で斉唱したことはあったけど、仁科ひとりの歌を聴いたのはこれが初めてだね。1年の時は音楽じゃなかったの? 選択教科」

「あ……はい。古文でした」

「もったいないなぁ、こんなにうまいのに。これなら合唱部として十分やっていけると思うよ」

「ありがとうございます」

仁科がぺこりと頭を下げる。

ふと、疑問が浮かんだ。

「ねぇ、ひとつ訊いていい?」

「はい」

「仁科はさ……合唱部を作ってどうするの? 何かやりたいことがあるから作るんでしょ?」

「そうですね。ええっと……まずは、創立者祭に出たいと思ってます」

「あぁ、文化部だもんね。それで?」

「その後のことは考えてません」

きっぱりと言い切る。

合唱部部長としては、かなり不安な発言だった。

まぁ、何も目標がないよりはマシか……。

「歌いたいから歌う。そんな部にしたいんです」

受け売りなんですけどね、と付け加えながら仁科は笑った。

……。

同じクラスだった1年の頃、幾度となく見てきた仁科の笑顔……

そして今、目の前にある仁科の笑顔……

それは目に見えない小さな違い。

『今のりえちゃんが、本当のりえちゃんだよ……』

杉坂の言葉を今、はっきりと実感した。

「……」

歌いたいから歌う、か……。

仁科の歌を聴いて、わたしは……

わたしのやりたいことを見つけた。

「よし決めた!」

「はい?」

「わたしも合唱部を手伝う」

「えっ、でも原田さんは部活が……」

「今はわけあって休部中だし、昨日部長にも休めって言われたばかりなんだよ。だから大丈夫」

一年前……仁科と初めて出会った時と同じように右手を差し出す。

「期間限定の合唱部員として、よろしく頼むよ」

一年前は、差し出されたわたしの手を取ることも躊躇していた仁科。

今はもう、戸惑うこともためらうこともなく、わたしの手を取った。

「はいっ、こちらこそよろしくお願いします」

今まで見た中でも一番の笑顔を見せる。

この笑顔を近くで見られるというだけでも、合唱部を手伝う価値は十二分にある。

そう思った。

「何ニヤついてんだ?」

「うわっ」

いきなり後ろから声をかけられ、驚いて振り返る。足音も立てず背後に忍び寄ってきていたのは、トゲトゲした髪と攻撃的な目つきの女……杉坂だった。

「おかえり、すーちゃん」

「ただいま。ところで……なんで原田がいんの?」

「原田さんも手伝ってくれるって」

「え、ほんとっ?」

「ああ、仁科の笑顔をあんたに独占させたくないからね」

「なっ!?」

思いきり裏返った甲高い声を発して驚く杉坂。明らかに動揺しているな。わかりやすい奴。

「やっぱこいつはダメぇっ!」

「すーちゃん、失礼だよ」

「そうだそうだ」

「くっそぉ……」

こうして、わたしの合唱部員としての日々が始まった。

ずっと同じことを続けてきた今までの毎日から一転、退屈する暇もないほど新鮮な……時には事件にも巻き込まれたりもした毎日だった。

仁科の過去、杉坂の闇、そして出会い……。

二週間という短くて長い時間で、わたしは大切なものを得た。

それはバレー部に復帰した今もわたしの心にある。

そして、仁科と杉坂は今も歌い続けているだろう。

人の心を動かす、懐かしい唄を。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

三重唱のトップバッターは、薄幸の合唱部員3こと原田の章でした。

原作で合唱部員3が唯一のセリフを発したシーン以外にまったく登場しない理由を自分なりにこじつけたのがきっかけで、この話は作られました。

原案としてはアニメもコミックも原田の名前もなかった頃に考えていたため、コミックやアニメ設定だと違和感があるかもしれないけど、楽しんでもらえれば嬉しいです。